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『エイドリアン・ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR』連動企画01/グランプリとカート少年の憂鬱

2020年4月14日

 数多くのチャンピオンマシンを生み出したレーシングカーデザイナー、エイドリアン・ニューウェイの著書が4月28日(火)に発売となる。日本語版の発売を記念した連動企画として本書「ON THE GRID」CHAPTER 03 より、ニューウェイ少年が初めて観戦したF1グランプリの記憶とカートの改造に夢中だった学生時代のエピソードを抜粋して、紹介する。


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 父は車を愛していたが、モータースポーツには特に関心を持っていなかった。だが、私のそれへの情熱は子供時代を通じて高まる一方だった。まだ少年だった私は、父に頼み込んで何度かレースに連れて行ってもらった。


 シルバーストンでの1973年イギリス・グランプリは、私にとって二度目のレースだった。ポールシッターはジャッキー・スチュワート(※実際にはロニー・ピーターソンがポールポジション)で、若き日の私はハンバーガーを食べることを許された。当時スチュワートがポールポジションを獲るのはよくあることだったが、私がハンバーガーを手にすることは滅多になかった。


 父の数多い些細な欠点のひとつとして、彼はジャンクフードの類を毛嫌いしていた。そして、そういったことに関して彼はいつも極端すぎる態度を取った。医者に塩分を取るといいと勧められると、夏の暑い日に体内の塩分レベルを維持しようとして、塩水を飲んだ。その医師が翻意して、やはり塩分はあまり取らない方がいいと言うと、今度は一切の塩分を絶ち、えんどう豆を茹でる時にも湯に塩を入れようとしないほどだった。


 だが、その日の午後、父はジャンクフード禁止のルールを緩和して、ウッドコートのグランドスタンドの下にあった売店でハンバーガーを買ってくれた。理由はわからないが、パドックを見て歩けなかったことへの埋め合わせのつもりだったのかもしれない。当時のウッドコートは、スタート/フィニッシュラインへと続く、超高速の最終コーナーだった。

F1最重要デザイナーの著書『エイドリアン・ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR』完訳の日本版が登場
エイドリアン・ニューウェイ氏の著作『エイドリアン・ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR』


 レースが始まった時、私たちはすでに席についていた。私はジャッキー・スチュワートが集団を100ヤード(91m)ほども引き離して、1周目の最後のコーナーを駆け抜ける様子を夢中になって見ていた(※予選4番手から好スタートを決め、べケッツ・コーナーでピーターソンを抜いてトップに立った)。


 次の瞬間、あっと思う間もなく、二つの出来事が起きた。ひとつは、マクラーレンに抜擢されたばかりの若き南アフリカ人、ジョディ・シェクターが高速のウッドコートでマシンのコントロールを失い、多くのドライバーを巻き込む多重クラッシュの原因を作ったことだ。これはF1史上でも最も大きなアクシデントのひとつで、まさに私の目の前で発生した。


 もうひとつは、それを見て驚いた私がハンバーガーを落としてしまったことだ。


 その事故が起きた瞬間、グランドスタンドの観客全員が立ち上がり、多くのマシンがコースから四方八方へ飛び出して、誰かのエアボックスが空中に高く舞い上がり、埃と煙でサーキットの一部が見えなくなったことが、今も私の記憶に残っている。とてもエキサイティングであると同時に、ショックでもあった。誰かが怪我をしたり、あるいはもっとひどいことになってはいないかと思ったからだ。実際その場の状況を見れば、とても全員が無事とは思えなかった。


 マシンの残骸から、ドライバーたちが這い出してくるのを見て、ほっとしたのを憶えている(ドライバーの怪我は、最も重いもので脚の骨折に留まった)。興奮が収まった時、誰の目にも明らかなのは、マーシャルがコースを片づけるまでに、かなりの時間がかかることだった。その間に私がやるべきことは、ひとつしかない。グランドスタンド最下段の下へと潜り込み、落としたハンバーガーを回収して、残りを平らげたのである。


 13歳になると、私はダービーシャーのレプトン・スクールに入れられた。祖父、父、兄の全員がレプトンへ行っていたので、私が行くかどうかに議論の余地はなかった。初めての寄宿生としての旅立ちは、私の人生において、やはり学業では好成績を期待できそうにない新たな時期の始まりでもあった。ただ、むしろ状況は今回の方が悪かった。すぐに判明して私を落胆させたエムスコート・ローンとレプトンの違いは、エムスコートで私は他の生徒に人気があり、勉強の成績は振るわなくてもまずまずの時間を過ごせたのに対し、レプトンでは仲間はずれに近い立場だったことだ。


 レプトンは、おそらく今もそうだと思うが、スポーツにとても力を入れていた。しかし、私はサッカーでは凡庸、クリケットは絶望的で、ホッケーに至ってはそれ以下だった。私がそれなりにできた唯一のチームスポーツはラグビーだったが、当時レプトンでは誰もラグビーをやらず、またどうしたわけか、やろうとする者もいなかった。


 そんなわけで私はクロスカントリーランで、そこそこの成績を挙げることで良しとするしかなかった。ただ、それは同級生に絶賛されたり、人気を得たりするための最も確実な方法というわけでなかった。私は、いじめを受けていた。暴力をふるわれたのは一度だけで、相手はひとつ上の学年のふたりの少年だが、おかげでレプトンでの最初の2年間は、あまり楽しくないものになった。


 しかし、やがて退屈が辛さを上回るようになると、私はレーシングカーの絵を描いたり、レーシングカーに関する本を読んだり、模型を作ったりすることに没頭して退屈をしのぐ一方で、新しい遊びにも手を出した。
それがカートだった。


 父に頼んでシェニントンのカートコースに連れて行ってもらったことを、はっきりと思い出すことができる。14歳の時だった。初めてそこを訪れたのは一般向けの練習走行の日で、父と私は他の子どもたちと父親たちの様子を眺めていた。大きく分けて2種類のカートがあることは、すぐにわかった。ギアボックスもクラッチもなく100?のエンジンが後輪に直結しているカートと、モーターサイクル用のエンジンとギアボックスのユニットを積んだカートだ。


 直結式のカートの難点は、押しがけで始動するしかないことだ。つまり、ドライバーがカートと並んで走るのに合わせて、もうひとりのお人好し(多くの場合は父親だ)がカートの後部を持ち上げながら走り、カートを地面に落とすと同時にドライバーが飛び乗るという離れ業を、二人で演じる必要があるのだ。


 私は、父親がカートから手を離した瞬間に、子どもの足がもつれて転ぶ場面を何度も見て、すっかり怖気づいた。そうなるとエンジンのかかった無人のカートは15mphほど(24?/h)でトコトコと走り続け、見物人が逃げ惑うなか、パドックの果てのセーフティバリアに突っ込むことになる。そして、怒声やら子供の半べそやらが、それに続くのである。


 まさに一幕のドタバタ喜劇だった。私は父の気の短さを考えて、より高価だがスタートの楽なギアボックス付きのカートにしようと決めた。


 一方で父は、その場の様子を観察して彼なりの結論を引き出していた。「私が見た限りでは」と、父は考え深げに言った。「子どもたちの大半は自分たちがやりたいからここにいるのではなく、どちらかと言えば父親が子どもにやらせたがっているようだ」


 最初は父が何を言いたいのかわからなかった。すでに私は、とにかくカートが欲しくて夢中になっていた。その気持ちは確かだったが、父もそう簡単には引き下がらなかった。私は何とかして、自分の渇望と熱心さを証明してみせる必要があった。すると、彼はこう提案してきた。私は自分でお金を貯めてカートを買わなければならない。ただし、私が働いて1ポンドを稼いだら、父も1ポンドを貯金に足してくれるというのだ。


 夏休みの間、私は全力で働いた。何か雑用はないかと近所の家を訪ね歩いた。芝刈り、洗車、そして家の庭に実ったプラムを売ったりした。近隣のある老人から、家と前庭のペンキ塗りの依頼を受けることにも成功した。そうして少しずつ増やしていった貯金は、ついに『Karting Magazine』誌の売買欄に出ていた1台のカートを買えるだけの額に達した。


 それはバルロッティ(レディングのケン・バーロウが作ったフレームだが、彼は自分のカートの名前をイタリア風にしたいと思ったようだ)のフレームに、ビリヤース9Eという199?のモーターサイクル用エンジンを積んだものだった。状態はかなり悪かったものの、とにかくカートであることは確かで、ありがたいことに運搬用のトレーラーも付いていた。


 だが、それを何とかシェニントンに持ち込んで、2回ほど練習走行をしてみたところ、ストップウォッチは私とこのカートの組み合わせが絶望的に遅いことを示していた。グリッド最後尾のタイムにも遠く及ばないのだ。その一方で、レプトンでの惨めな第2学年も始まっていたが、学校ではひとつ良いこともあった。


 ワークショップの責任者で週に2回、私たちの授業を受け持っていた教師と仲良くなり、その人を説得して、ワークショップにカートを置かせてもらうことになったのだ。そうすれば放課後と週末には自分で作業ができるようになる。私と父は、獣医の仕事に使っていたミニバン(ナンバープレートはPNX556M)でカートを積んだトレーラーを牽引して、学校に乗りつけた。1973年1月のことだ。


 かくして、私は長く退屈な寄宿学校の「フリータイム」を、ずっと有益に過ごせるようになった。カートのエンジンを分解してリビルドし、ギア抜けを直すために新品の2速ギアを使ってギアボックスを組み直し、あるいはブレーキの整備をしていたのだ。


 翌年の夏休みには、またシェニントンへ行ってさらに2回の練習走行をしたが、このカートと私は依然として遅すぎた。ただリビルドして調整するだけでは大して速くはならず、もっとドラスティックな対策が必要だった。エンジンは明らかにパワー不足で、チューブフレームのシャシーも、速い少年たちのカートと比べると一世代前のものだったからだ。


 エンジンに関しては、オリジナルの鋳鉄製に代わるアルミニウム製のアプトン・シリンダーと210?のピストンを手に入れる必要があったので、私はまた洗車のアルバイトをして資金を作り、父も引き続き私が稼いだ額と同額の援助をしてくれた。新しいシャシーを作るのは、それよりずっと大がかりな話になり、まずは溶接と鑞ろう付けの技術を習得しなければならなかった。


 そこで私は、BOCがバーミンガム北部のプルーム・ストリート── まさに溶接を教える場所にふさわしい地名だ) ── で開いていた、10日間の溶接講習コースに受講の申し込みをした。私は毎朝6時に起きてストラトフォードからバスに乗り、9時前にはバーミンガムに着いて、仕事にうんざりしている大勢の30代の男たちと一日を過ごした。彼らの多くは雇い主の命令で、この講習を受けさせられていたのだ。そして家に帰ると、もう夜の9時近かった。


 こうして新しいスキルを身につけた私は、学校に戻ってシャシーを作り上げた。クリスマス休暇の間には、アプトンのシリンダーを使ってエンジンをリビルドし、さらに友人の手助けを借りながら、電子工作の雑誌から設計をコピーした電子式イグニッションも作った。


 夏学期を迎える頃には、すべての作業を終え、うまく走ってくれることを祈りながら、カートをワークショップから持ち出した。最初の試みは失敗に終わり、私はカートを押して屋内に戻した。しばらくあちこちをいじくり回して、イグニッションタイミングが間違っていたことがわかった。


 別の日の午後に、もう一度始動を試みた。今度は二人の友人が熱心にカートを押してくれて、クラッチを繋ぐと、エキゾーストから大量の青白い煙が吐き出されてエンジンがかかった。


 当時やはりレプトンの生徒だったジェレミー・クラークソン(※BBCの自動車番組『トップ・ギア』の司会者を務めていたことで知られる)は、その時のことをよく憶えていて、のちに彼なりに脚色した話をジャーナリストたちに語った。彼の話では、私はゼロから自分のカートを作り(実際には、そうではなかった)、学校の中庭を恐ろしいほどのスピードで走り回った(それもやっていない)ことになっている。


 本当のところは、チャペルの周りをゆっくりと転がした程度にすぎない。ただ、その試走は悲惨な結果に終わった。カートを押してくれた友人のひとりに運転させたところ、クラッシュしてリア・アクスルを曲げてしまったのだ。新品を買うために貯金しなければならないと思うと、まったく気の滅入るような出来事だったが、費用の一部は友人が負担してくれた。


 しかし、それ以上にまずかったのは、いったいこれは何の騒動かと校長が様子を見に来てしまったことだ。まあ、それも驚くには当たらない。私のカートはレース用の2ストロークで、サイレンサーも付いていなかった。その騒音は、唸りを上げる蜜蜂のロボットの大群が急襲をかけてきたかのように聞こえたはずだ。明らかに機嫌を損ねた様子の校長は以後、学校にカートを持ち込むことを禁止した。もっとも彼の命令は実質的には無意味だった。結局もう次の学期には、私はこの学校にいなかったからだ。


 ジェレミーがよくジャーナリストに話している逸話が、もうひとつある。1970年代を通じてレプトンを放校になった生徒はふたりだけで、ひとりは自分、もうひとりが私というものだ。


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『エイドリアン・ニューウェイ HOW TO BUILD A CAR』
訳/水書健司 監修/世良耕太
発行元/株式会社 三栄
ハードカバー・656ページ
4800円+税
2020年4月28日(火)発売


通販にて予約受付中
https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11299





(autosport web)




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