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パトリック・ヘッドが語るウイリアムズとBMWの難しい関係「彼らは自前チームの立ち上げを目指していた」

2020年12月16日

 2020年F1第8戦イタリアGPを最後に、ウイリアムズ一家がF1グランプリに別れを告げた。チームの名は今後も残るとはいえ、創設者であるフランク・ウイリアムズとその娘クレア・ウイリアムズの撤退は、明らかにひとつの時代が終わったことを意味する。


 近年のウイリアムズは確かにグリッドを埋めるだけのテールエンダーに成り下がってしまっているが、コンストラクターズタイトル歴代2位の9回を誇る彼らは単なるF1チームではない、“超”がつくほどの名門チームだ。


 しかし、そんな彼らがなぜこんな末路を辿らなくてはならなくなってしまったのか。その答えを導き出すためには、時計の針を少し巻き戻す必要がある。


 1997年、ルノーのワークス活動終了にともない、ウイリアムズはその後2シーズンにわたってカスタマーエンジンの使用を余儀なくされる。1990年代を無双状態で支配した名門チームにとって、その『カスタマー2年間』は苦痛の時間と言えた。2000年、彼らはようやくワークスエンジンを手にする。1986年以来のF1復帰を果たすBMWとのジョイントだ。ホンダ、ルノーとともに栄光の時代を築いてきたウイリアムズにとって3組目となる自動車メーカーとの提携だ、期待しないわけがない。


 毎号1台のマシンを特集し、そのマシンが織り成す様々なエピソードを紹介する『GP Car Story』。最新刊のVol.34では、そんな2000年シーズンのウイリアムズFW22を特集。このページでは、当時チームの技術部門を統括する立場にいたパトリック・ヘッドのインタビュー記事を全文公開する。


 ウイリアムズ一家より一足早くヘッドはすでにチームを離れているが、チーム創設時からフランクと二人三脚で歩んできた彼は、まさにウイリアムズチームの生き字引。今回のテーマは2000年シーズンの話ではあるが、彼の言葉から、なぜウイリアムズ一家がチームを離れなければならなかったのか、そのヒントが隠されているかもしれない。
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■復権を目指して

──1997年にジャック・ビルヌーブが選手権を勝ち獲った後、ウイリアムズはウインフィールド・カラーのクルマで、2年間にわたって1勝もできませんでした。2000年にBMWをパートナーに迎えるまで、足踏み状態だったのでしょうか?


パトリック・ヘッド(以下、ヘッド):そうは思わない。1997年のクルマはエイドリアン(ニューウェイ)がデザインしたものだ。彼は1996年の終わりにはチームを離れていたが、クルマのデザインはエイドリアンが去る前に完成していて、チームにはどんな問題にも対処できる優秀なエンジニアが揃っていた。当時は年ごとの開発速度もそれほど速くはなかったし、1999年のクルマも実際にはそれほど悪くはなかった。


 ただあの頃には、もうルノーのエンジンは最強ではなくなっていた。フラビオ・ブリアトーレは、あのエンジンをルノーではなくスーパーテックと呼ばせたがっていたがね(笑)。


 ルノーから撤退の意向を聞かされて、私たちはそれから2年間はルノー・エンジンを使い、いわば離婚慰謝料のようなものとして、費用はルノーが負担するという約束を交わした。その後、フラビオがあのエンジンを自分のビジネスにして、私たちにもスーパーテック・エンジンの使用料を払わせようとしたんだ。


 1999年に走らせたBMWのテストカーは、基本的にはその年のシャシーで、2000年のクルマもおなじシャシーをベースに、少し違ったボディワークを取り入れたものだった。だから、1999年にはルノー・エンジンのクルマを走らせながら、実質的に2000年のテストをしていたとも言える。


──スーパーテック時代になると、ルノー・エンジンはほとんど開発されていませんでした。それだけに、BMWのエンジンには相当な期待をされていたのではありませんか?


ヘッド:トップチームに返り咲きたいという野心があったのは確かだ。ポール・ロシェは本当に素晴らしい人物で、みんなに自信を抱かせてくれたし、彼自身も自信に満ちた人だった。自分でCADの画面、あるいは製図板の前に立ってエンジンを設計したわけではないものの、彼は優秀な人材を見極めて雇い入れる能力に長けていた。後年、偉大な仕事をすることになるアンディ・コーウェルも、そこで育った人だ。


 いただけなかったのは、BMWの役員会がマリオ・タイセンを起用したことだ。彼は以前からBMWで働いていて、屋根付きのスクーターとか、いろいろなプロジェクトに関わっていた。彼らはマリオをBMWモータースポーツの責任者に据えた。そして、マリオがハインツ・パッシェンを招き入れ、もうひとり名前は覚えていないが、どうにも付き合いづらい人物をマネージャーのような立場で雇った。


 もうロシェが関与する余地はないのは明らかで、実際に彼は2000年後半にはBMW本社へ異動になり、BMWモータースポーツからは離れてしまった。もっとも、当時すでにロシェは70歳を超えていたはずで、そうした配置換えは正しいことだったのかもしれない。


──ロシェが外されて、失望したということですか?


ヘッド:彼はとても面白くて楽しい人だった。そして、BMWの誰もが彼を尊敬していた。父親のような人物というだけではなく、みんなが心から敬服していたし、そうする理由も十分にあった。だが、私に言わせれば、タイセンとその一派の人々は彼を不当に扱い、文字どおりに追い出してしまったんだ。ロシェがBMWのためにしてきたことに対し、彼らは然るべき敬意を払わなかった。


──BMWの内部で、複雑な動きがあったのでしょうね。ゲルハルト・ベルガーもBMWモータースポーツのディレクターとして関わっていましたが、誰が何の責任者なのか、明確になっていたのでしょうか?


ヘッド:ゲルハルトは、どちらかと言えばBMWモータースポーツのマーケティングや、イメージ戦略を担う立場だったと思う。彼とタイセンが『ふたりのボス』で、どちらか一方に他方を支配する権限があったかどうかは知らないが、分担して仕事をこなしていた。ゲルハルトは技術的な面には関与せず、マリオも商業的な面はゲルハルトに任せていたと思う。

ウイリアムズBMWの首脳陣。左からゲルハルト・ベルガー、フランク・ウイリアムズ、パトリック・ヘッド、マリオ・タイセン
ウイリアムズBMWの首脳陣。左からゲルハルト・ベルガー、フランク・ウイリアムズ、パトリック・ヘッド、マリオ・タイセン

■新しいマシンパッケージ

──最初のBMWエンジンは、どのようなものでしたか?


ヘッド:パワフルだったのは間違いない。パワーに関しては問題なかったが、信頼性はとても低かった。結果として、予定外のエンジン交換の回数は、とんでもない数に達していた。ボルトやナットのひとつひとつが、もうそれぞれ自分の動きを覚えただろうと思えるほどにね。


 BMWはエンジンを組むのに大忙しだったと思う。私の記憶では、確か予定外のエンジン交換が64回あったからね。当時、レース前にエンジンを載せ替えるのは当たり前だったが、それに加えてプラクティスの途中で積み替え、金曜の夜にも積み替えていた。とにかくエンジン交換の回数が多かったし、BMWの方でも、それだけの数のエンジンを用意するのは大変なことだったと思う。


 また、最初の年のエンジンは、重量が130kgか132kgもあった。1997年にジャッド(ヤマハ)がアロウズに供給したエンジンは100kgほどに収まっていたから、BMWは当時としても、かなり大きくて重いエンジンだった。ただ、パワーはあったよ。その点に疑いの余地はない。


──では、シャシーはどうでしたか?


ヘッド:特別に良くはなかった。だが、とても穏やかなクルマで、手を焼かされるような厄介な癖はなかった。飛び抜けて優れたところはないにせよ、悪くはなかったと思う。縦置きギヤボックスを維持したのが良かったんじゃないかな。

■新人バトンの起用と評価

──1999年の終わりにかけてジェンソン・バトンが注目を集めるようになり、彼はテストでプロストにも乗りました。彼とブルーノ・ジュンケイラのどちらがウイリアムズのシートを得るか、テストをして決めた話はよく知られています。バトンをそのテストに呼ぶことになった理由は? そして最終的な決定は、あなたとフランクが行ったのですか?


ヘッド:この話をすることで名誉を傷つけるつもりはないのだが、フランクは昔からドライバー選択の権限は自分にあると思いたがっていた。私としても、彼が完全に間違った方向へ行こうとしているのでない限り、彼に主導的な立場を取らせることに不満はなかった。ドライバーの選択に関しては、私たちふたりが合意したうえで決めるという約束はあったが、フランクの考えには断固反対という場合を除いて、彼がしたいようにさせていたんだ。


 ジュンケイラは、すでにテストドライバーとして起用したことがあり、能力の高さは分かっていたから、彼を候補とする理由はあった。はっきりしていたのは、(アレッサンドロ)ザナルディの継続起用はないということで、私たちは彼の後任を探していた。そして多くの人が、ジェンソンの話をフランクの耳に入れていた。


 テストデーを設けて、午前はジュンケイラ、午後はジェンソンを走らせたのも、基本的にはフランクの考えたことだ。翌日の朝にはチームの新車発表が控えていて、フランクはそのテストで誰を起用するかを決めるつもりだった。ジェンソンが呼ばれて、『君を乗せることになった』と言われたのは、新車発表が始まる15分前くらいだったと思う。確かめたわけではないが、フランクは当然ブルーノにも敬意を払い、彼を呼んで『君を乗せることはできなくなった』と伝えたはずだ。


──ジェンソンとラルフ・シューマッハーを、どのように評価していたのでしょうか?


ヘッド:ラルフの方が優れていたという意味ではないが、彼がリードドライバーだったのは間違いない。実際、獲得したポイントの差が、そのことを示している。だが、ジェンソンはナイスガイで、気取ったところもなく、チーム内でみんなに好感を持たれていた。私たちはすでにファン・パブロ・モントーヤと契約し、アメリカで1年間CARTインディカーのレースをさせた後に、チームに迎えることになっていた。だから、翌年もジェンソンをキープするという選択肢はなかったんだ。みんな彼が大好きだっただけでなく、とても優れたドライバーであるとも思っていたから、本当に残念なことだった。


 彼は苦戦を続けていたベネトンへ移籍した。当時、彼らが使っていた広角バンクのエンジンは、それほどパワフルではなく、信頼性も低かった。しかも、ブリアトーレはジェンソンに、『おまえの立場は危うい』とか『いずれクビにする』と言い続けた。ジェンソンにとって、F1での2年目と3年目はとても難しいシーズンだった。


──1年目のジェンソンはまだ20歳で、前年までF3に乗っていました。当時、これはかなり珍しいことでしたが、彼は十分にいい仕事をしたと思います。


ヘッド:ああ、そのとおりだ。彼はものすごくスムーズで、クルマに無理をさせないドライバーだった。例えばスパなどのように、流れるようなレイアウトのサーキットを得意としていた理由の一部は、そこにあると思う。彼が優れたドライバーだったのは間違いない。


 そして、彼はまだ若かったが、ウブな若者ではなかった。女の子に関しては、もうすっかり目覚めていたと思うよ(笑)。彼の周りには、いつもかわいい女の子がいた。あれは生まれながらの本能というやつだね。また、誰もが知っているとおり、彼の父親はとてもいい人で、この世界のことをよく理解していた。これははっきりと言っておきたいのだが、ジョン・バトンはいかなるかたちであれ、出しゃばるということがなかった。いつも背後に控えて、ジェンソンを支えようとしていた。チームのみんなにも心から歓迎されていた。


 翌年ジェンソンと交替したファン・パブロは、ラテン系の火の玉ボーイと評されていて、この変更でチーム力が後退したとは思わなかったが、ジェンソンがチームに残る方が自然な成り行きかもしれないとは感じたよ。ただ、すでに2001年にはモントーヤをウイリアムズに迎える手筈が整っていたんだ。


──ジェンソンは着実に進歩していましたか? 彼はシーズン終盤のスパの予選で3位に入り、モンツァでも速かった。また、多くのレースでポイントを獲得しました。


ヘッド:そうだね。あの天賦の才能は見間違いようがなかった。とにかくスムーズなんだ。クルマについて、いろいろとしゃべりたがる方ではなく、出しゃばろうとすることもなかった。


 ドライバーが、クルマに関して役に立つ話をしてくれるのはありがたいことだが、彼はあまり積極的には口を開かなかった。デブリーフィングはふたりを集めて一緒にやっていた。ジェンソンは、ラルフの言っていることに同意する時だけ話に入ってきて、うなずきながら『僕もそう思う』と言うんだ。彼のドライビングスタイルは、ラルフとそれほど大きくは違わなかったようだ。実際、ジェンソンとラルフとでウイングのバランスを大きく変えたり、全然違うアンチロールバーを使ったりする必要はなかった。ジェンソンは、まずは学ぼうとしていたのだと思う。


 F3とF1のギャップは決して小さくない。2000年の終わりに、私たちはその年に使ったエンジンを新しい施設のダイナモに乗せてみた。もちろん、BMWの旧施設にもダイナモはあって、彼らはエンジンの本当の出力値を知っていたはずだが、実測で900馬力以上あった。240馬力ほどのF3から900馬力のクルマに乗り換えるのは、かなり衝撃的な経験だったと思うよ。

■手堅いラルフ

──では、あの年のラルフについては、どうですか? 彼はまず開幕戦のオーストラリアで、その後はスパとモンツァでもポディウムに上がりました。


ヘッド:手堅いドライバーだったね。担当エンジニアはクレイグ・ウィルソンだった。彼とラルフはいつもモーターホームの片隅に身を潜めていて、デブリーフィングの時も必ずふたり一緒だった。ラルフはまったくチームに溶け込もうとせず、みんなと仲間になるのを拒んでいるように見えた。それにひどく怒りっぽかったね。気難しいというのはちょっと違って、人としてあまり開放的な性格ではなかったんだ。少なくとも、リラックスした感じではなかった。


──フランツ・トストについては、どうですか?


ヘッド:フランツはラルフのマネージャーというか、実際にはカバン持ちのようなものだった。彼は当時から実直な人物だったが、ラルフのフランツに対する扱いは、ちょっと信じられないほどひどかった。ラルフがガレージに来て、朝食のミューズリー(シリアルの一種)をボウルに出すと、フランツが混ざっているレーズンを全部つまみ出してやるんだ。ラルフはレーズンが嫌いなんだと言ってね。現在の彼が、アルファタウリ(ミナルディを起源とするF1チーム)のボスとして、文句なしの仕事をしているのは確かだ。

2000年F1第17戦マレーシアGP FW22を駆るジェンソン・バトン(ウイリアムズBMW)
2000年F1第17戦マレーシアGP FW22を駆るジェンソン・バトン(ウイリアムズBMW)

■獲り損ねたタイトル

──当時のウイリアムズには、ジェームス・ロビンソンや、少しあとのサム・マイケルのように、優れたエンジニアが何人もいましたね。


ヘッド:ジェームスは確かに頭のいい人物ではあったが、ちょっと自己中心的だった。才能がないわけではなかったけどね。サムがウイリアムズに来たのは、2001年シーズンが始まる前のことだったと思う。私は2004年にテクニカルディレクターを退いて、その職をサムに引き継いでもらった。


 2003年のウイリアムズには相当な競争力があったにもかかわらず、本当につまらない理由で最後の3レースを台無しにしてしまった。そして、2004年はショートノーズに2本の前方にせりだすウイングステーを付けた、あの不格好なクルマでスタートし、あまりいい成績を残せなかった。私自身も、その頃にはロンドンから通勤するようになり、技術チームの仕事を十分にコントロールできていないと感じていた。そんなこともあって、2004年からはサムに任せたんだ。


──2003年には、モントーヤとラルフのコンビで世界選手権を勝ち獲る可能性があったと、今でも思っていますか?


ヘッド:可能性どころか、楽勝でタイトルを獲れていたはずだ。まず最初のつまずきは、イタリアGPの前に行われたモンツァでのテストで起きた。


 フェラーリが、ミシュランのフロントタイヤにクレームをつけたんだ。新品の状態での寸法は規定値以内だが、消耗するとトレッド幅が規定の最大値より大きくなると言ってね。そしてFIAもそれを認めて、『このタイヤを使うことはできない』と言われた。ミシュランは大急ぎで改良したタイヤを持ち込み、モンツァテストの大半は、そのタイヤが摩耗した時にトレッド幅が規定を超えないかどうかの確認に費やされた。


 それに加えて信頼性の問題があり、さらにはモントーヤとラルフのお互いに向けられた激しい敵対心がチームの足を引っぱった。あのふたりがシーズン後半戦で見せた子供っぽい態度は、私には本当に信じられないものだったよ。だが、とてもパワフルなBMWエンジンのおかげもあって、私たちのクルマがフィールドで最速だったのは確かだ。

■BMWとの別離

──ある意味でウイリアムズとBMWのパートナーシップは、活かされずに終わった好機だったのでは?


ヘッド:まさにチャンスの逸失だったね。タイセンは2002年頃から、いずれは自分でチームを運営しようと考えていたのだと思う。そのために、彼は様々な要求を突き付けてきた。2003年には契約更新の交渉をしたのだが、その際にトランスミッションやシャシーの図面から空力のデータまで、彼らが求めればすべてを開示することを要求された。風洞実験グループには、BMWのエアロダイナミシストが送り込まれた。彼らが何をしたいのかは明らかだった。自前のチームの立ち上げを目指していたんだ。


 私たちは、あらゆるものを引き渡すことを強いられ、ミュンヘンでは徐々にそのための人材も集め始めていた。その挙げ句に、彼らはウイリアムズの株を買いたいと言ってきた。それも呆れるほど安い金額でね。


 私たちはそのオファーを断った。その結果BMWは私たちのもとを去り、のちにザウバーを買収してそちらへ乗り換えた。実際のところ、もう少し利口に振る舞っていたら、彼らと袂を分かたずに済んだかもしれない。だがそうなると、彼らがグローブのファクトリーに乗り込んできて、あれこれ指図をするようになる。さすがにそれは受け入れられなかった。私自身が、どちらかと言えば指図をしたいタイプの人間だからね。


 いずれにしても、これだけは言っておきたい。2001年から2005年の間に、ウイリアムズはまあまあのエンジンを使って、グランプリで10勝を挙げた。一方、2006年から撤退までの4年間で、彼らはたった1勝しかしていない(笑)。


──BMWは2009年限りでF1から撤退しました。ですから当時彼らがウイリアムズの株式を手に入れたとしても、いずれはすべて元に戻っていたのではないでしょうか。


ヘッド:ウイリアムズにとっては、その方がずっと良かったのかもしれない。そして、ロス・ブラウンがホンダと結んだような契約を交わして、チームを復活させていただろうね!


──フランクとの関係は、あなたにとってどのようなものでしょうか?


ヘッド:いつも言っているように、誰かと40年近くも仲良く付き合っているのなら、それはいい友達同士に他ならない。フランクは、私の仕事には干渉しない方がよいと考え、そうしたやり方を守ってきた。彼は枕に頭をつけたらすぐに眠れて、毎晩10時間は寝られる人だ。一方、私はその正反対の心配性だが、私たちのコンビはとてもよく機能していた。

ウイリアムズBMWで長年テクニカルディレクターを努めたパトリック・ヘッド
ウイリアムズBMWで長年テクニカルディレクターを努めたパトリック・ヘッド

2000年のウイリアムズFW22に搭載されたBMW E41エンジン
2000年のウイリアムズFW22に搭載されたBMW E41エンジン

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『GP Car Story Vol.34』では、今回お届けしたパトリック・ヘッドへのインタビューのほか、FW22の空力を担当したジェフ・ウィリスや、BMWの『ふたりのボス』であるマリオ・タイセン、ゲルハルト・ベルガーなど読み応えある記事満載でお届けする。


 自動車メーカーと組む利点をヘッドは十分に理解していた。それがいかに大きな力になるかということを。しかし、自分たちのプライドがあったからこそ、踏み込ませたくない領域もあった。それこそ、9度のコンストラクターズタイトルを獲った超名門チームゆえの自信だったのだろう。


 あのとき、BMWと袖を分かつことがなければ、もしかしたらウイリアムズの未来は少し変わっていたかもしれない。私たちは彼らの未来を知っている。だからこそ、FW22を通じて見えてくるものに今のウイリアムズと重ねられるものがきっとあるはずだし、今、このタイミングで同車をとりあげた意味もある。


『GP Car Story Vol.34 Williams FW22』は全国書店やインターネット通販サイトで発売中。内容の詳細と購入は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11674)まで。

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(Text:Adam Cooper
Translation:Kenji Mizugaki)


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