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常勝ウイリアムズ・ルノーの礎を築いたパトレーゼが語る地味な準備期間「ルノーV10は息子のような存在」

2022年3月15日

 今から30年前の1992年──開幕から独走するナイジェル・マンセルが、勢いそのままにキャリア初のタイトルを夏場に決めてしまう驚異的な強さを誇った。アクティブサスペンション、トラクションコントロール、セミオートマチックトランスミッションをはじめとしたハイテクデバイスで武装したウイリアムズ・ルノーは、F1グランプリの戦い方、クルマの開発思想を根底から覆し、ここから英仏連合の常勝時代が始まっていく。


 両者の共闘が始まったのは1989年から。順序立てて言えば最初の2年間は完全な準備期間であり、彼らの思惑が結実し始めたのが3年目、そして4年目に悲願達成となる。実はこの地味な最初の2年の準備期間にこそ、ウイリアムズ・ルノーの強さを知る手がかりがあった。


 準備期間といえども、ウイリアムズ・ルノーはこの間にも勝利していることに注目したい。彼らはしっかりレースで結果を残しつつ、自分たちの理想を追求し続けた。綿密な計画と継続性のある開発がウイリアムズの強み、そこに『開拓者精神』旺盛なルノーの思考が注入され、1990年代最強チームのウイリアムズ・ルノーが完成することになる。エンジンパワー頼みの時代から、車体とエンジンすべての調和をとったトータルパッケージ思想へとF1カーの開発理念がシフトしていくきっかけを作ったのは紛れもなくウイリアムズ・ルノーである。


 ホンダ・パワーを失い、ウイリアムズは一度どん底に突き落とされた。それはある意味ルノーも同じで、F1がターボ全盛の時代を迎えるきっかけこそ作れど、パイオニアとして結果を残せなかった。どちらももう一泡吹かせたい思惑があった。そのある種劣等感にも似た想いが、のちの爆発的強さを生むことになると思うと、まさに両者は互いによって最良のパートナーだったわけだ。


 1989年、ルノーV10専用の新車FW13が投入されるのは、シーズンも終わりに近い第13戦。ゆえに1990年もその改良型のFW13Bで戦うことになる。ここでチームの力になったのは、ホンダ・ターボの時代も経験し、その翌年のチームのどん底も知るリカルド・パトレーゼの存在だった。1992年にマンセルとチームがダブルタイトルを獲得したときもパトレーゼの貢献度は高く評価されるべきもので、そこに至るまでの準備期間をドライバーとして長きにわかり支えた意味で、彼は常勝軍団の礎を築いたキーパーソンと言える……。


 毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成す様々なエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.39では、1990年代常勝軍団ウイリアムズ・ルノーの礎といえるFW13B(FW13シリーズ)を特集する。


 このページでは、現在発売中の最新刊『GP Car Story Vol.39 Williams FW13B』に掲載されるリカルド・パトレーゼのインタビューを、誌面の関係で泣く泣くカットした部分を復活させた完全版でお届け。FW13Bを特集するにあたり、インタビューのなかでパトレーゼはその立ち上げから開発に携わったルノーV10エンジンのことを「息子のよう」と語っている。それだけ思い入れが強かったエンジン開発、そしてここからウイリアムズ・ルノーがいかにして常勝軍団へとかけ上げっていくのか、その当事者たるパトレーゼが包み隠さずに語ってくれている。


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──初めてルノーV10エンジンをテストしたときの感想から聞かせてください。


「1988年、ルノーがポールリカールで行ったV10エンジンの最初のテストに、私はドライバーとして参加した。その後、幾度となくタイトルを獲得することになるエンジンだ。自分にとっては手塩にかけた息子みたいなもので、その成功が私自身の喜びであり、誇りになっている」


「テストはV10エンジンの搭載に合わせて必要最小限の改良を行ったFW12を使用した。確か10月だったと思う。正真正銘の初走行で、私のほかにパトリック(ヘッド)と(ベルナール)デュドがいた。RS1が優秀なエンジンだったことは、開幕戦ブラジルGPの予選でフロントロウを獲得したことでも分かるだろう。私は一時レースをリードしたものの、ミスファイアが出て途中からパワーを失い、後退してしまった。その私を抜いてトップに立ったナイジェル(マンセル)が優勝を挙げたんだ」


──初代V10エンジンを搭載したFW12Cの仕上がり具合はどうでしたか。元々はジャッド・エンジンに合わせて設計されたシャシーで、ルノーもウイリアムズのために特別なことは何もしていないと聞いています。どう考えても、妥協を強いられたと思うのですが……。


「1989年シーズンはそんなに悪くなかったと思うよ。ドライバーズ選手権で3位につけて、上位2台がマクラーレンとなれば、これは胸を張ってもいい成績さ。私はレースで勝てなかったけれど、マシン自体は一年を通じて競争力を維持していたからね。ただ、マクラーレンを倒すほどの力はなかっただけで、恥すべきことでも何でもない。現にチームとしては何勝か挙げているのだし。エンジンが新しくなれば未知の問題がいろいろ出てくるのは当然だし、簡単にタイトルが獲れると考える方がおかしい。そういった意味も込めて、私はかなりの競争力があったと評価しているんだ」

1989年オーストラリアGP ウイリアムズFW13を駆るリカルド・パトレーゼ
1989年オーストラリアGP ウイリアムズFW13を駆るリカルド・パトレーゼ


──確かに、シーズン開幕早々に速さを発揮しましたね。


「最初から良かったことは間違いない。ただ、結果を見ると、マクラーレンには及ばなかったのも事実だ。しかし、私も2位を3回獲得しているし、ハンガリーGPのように勝ってもおかしくないレースもあった。あのときは予選でも断トツで速かったし、レースでも一時15秒くらいリードしていたんじゃなかったかな。でも、ラジエターに石が直撃して冷却水が漏れ始め、10周程度で空っぽになってしまった。それでエンジンの温度が上がりすぎてストップするしかなかったが、それさえなければ勝てていたレースだった」


「優勝できていたかもしれないという意味では、カナダGPも同じだね。雨のなかスタートを切ったレースで、最初にトップに立ったのは私だった。ところが、ディフューザーを留めていたボルトが緩み、急にダウンフォースを失ってしまった。そして、ペースが落ちたところをティエリー(ブーツェン)がかわしていって、そのまま優勝したんだ。記念すべきティエリーのF1初優勝だし、勝ったのはチームメイトだったので、もちろん祝福したけど、内心では今でも自分が勝つべきレースだったと思っているんだ」


──仰るとおり、メキシコ、フェニックス、カナダで2位に入っていますね。ほかにフランスとオーストラリアの3位があります。前の年に比べれば大躍進と言っていい。


「1988年がひどかったのは、ホンダが抜けて、代わりに載せたジャッドが力不足だったからさ。その反動とでもいうのか、チーム内の士気はむしろ上がっていた気がする。エンジンに合わせてクルマも新しくなることだし、1990年シーズンへの期待が否が応にも膨らんでいったのを憶えているよ。『FW13はバカッ速で競争力がハンパない』、ってみんなで言い合っていたのさ。残念ながらそれほどじゃなくて、期待外れに終わるんだけどね。いろいろ問題が浮上して、思ったほどには速くなかった」

■特別な1勝

──FW13の投入が大幅に遅れ、元々7、8月の予定だったのに、実際には9月下旬のポルトガルGPまでずれ込んでしまいました。なぜ、そうなったのでしょう?


「個人的にはもっと早く入れて欲しかったが、遅れた理由は私にはよく分からない。型落ちのシャシーでシーズンが始まり、まだかまだかと焦りながら戦っていたのを思い出すよ。やっとでき上がったと思ったら、良いときと悪いときの差が激しいのが問題だった。総じてダウンフォースが必要なコースレイアウトだと競争力が落ち、ダウンフォースに頼らないストップ&ゴーのサーキットではパフォーマンスが良かった。イモラとかモントリオールではものすごく速かったからね。現に私は、1990年のサンマリノGPで優勝している」


──サンマリノGPと言えば、1983年にあなたが先頭を走っていてクラッシュに見舞われた因縁のイベントですよね。


「そうさ。だから、すごくうれしかったよ。私はいろいろなコースで優勝したけど、イモラの勝利には特別な感慨があるんだ。私にとっては母国グランプリだからね。そのせいで1983年のクラッシュでは落胆したファンから大ブーイングを受けたけど、1990年の優勝では観客が盛大な歓声で祝ってくれた。うれしさもひとしおだったよ」

1990年サンマリノGPで優勝を飾ったリカルド・パトレーゼ(ウイリアムズ・ルノー)
1990年サンマリノGPで優勝を飾ったリカルド・パトレーゼ(ウイリアムズ・ルノー)

1990年サンマリノGPで優勝を飾ったリカルド・パトレーゼ(ウイリアムズ・ルノー)
1990年サンマリノGPで優勝を飾ったリカルド・パトレーゼ(ウイリアムズ・ルノー)


──その一方で、ポルトガルGPではラジエターがデブリによって目詰まりを起こし、オーバーヒートに見舞われるということもありましたね。それにスペインGPでは、ノーズのボトミングの問題も浮上しました。


「1990年シーズンにはすごく期待していたのに、次々とトラブルが発生して足を引っ張られてしまった。今、指摘のあったふたつの問題は、明らかにテクニカル的な問題だね。それとは別に、FW13はセッティングが難しいという問題も抱えていたんだ。どんなにセットアップをいじってもなかなか最適の状態を作り出せず、それに近いものができ上がったとしてもすぐに特性が変わってしまって、その状態を維持できないことが多々あった」


「パトリックなど、それがドライバーのせいじゃないかと疑っていたくらいだったからね。『マシンはもっと速く走れるはずだ。それができないのはドライバーが本気でプッシュしていないからだ』って我々を責めるわけだよ。『手抜きをしている』と面と向かって言われたことがあるくらいさ。まあ、そのとおりの言い方だったかどうかははっきり覚えていないけど(苦笑)、要するに我々の努力が足りないと考えていたようなんだ」


──パトリック・ヘッドはドライバーへの当たりが強かったのですか。


「ああ。当時はドライバーへの風当たりが強くて、常に100%以上の力を出すことが求められた。パトリックは能力が並外れているうえに性格もキツいから、反論するだけ無駄なんだ。キャリアの終盤にはずいぶんソフトになっていたから、(ファン・パブロ)モントーヤやラルフ(シューマッハー)はかなりやりやすかったと思うよ。ティエリーや私、それにたぶんナイジェルも含めて、パトリックには散々絞られた記憶したないんじゃないかな。とにかく求める水準が高かったからね」


「そういえば、1990年の日本GPの後に、彼からガッカリしたという内容のファックスが送られてきて驚いたことがある。私が4位でティエリーが5位だったんだけど、ランボルギーニ・エンジンを搭載したラルースに負けたことがどうしても許せなかったらしいんだ。アイルトン(セナ)とアラン(プロスト)が1コーナーで接触し、鈴木亜久里が母国グランプリで3位表彰台に上がって、大いに盛り上がったあのイベントで、パトリックがひとり別の理由で怒っていたというのが、今考えてもおかしいよね(笑)」

リカルド・パトレーゼとパトリック・ヘッド(ウイリアムズ・ルノー)
リカルド・パトレーゼとパトリック・ヘッド(ウイリアムズ・ルノー)


──そんなエピソードがあったんですね。


「そうなんだ。もうひとつよく覚えている出来事と言えば、これは1991年の話になるけど、ハンガリーGPではこんなこともあった。私はアイルトンとフロントロウを分け合ったんだけど、スタートで彼がそこまでやるかっていうくらい激しくインを突いてきた。危うく接触するところで、私が引かなければ相打ちになっていたはずだよ。おかげでアイルトンを追いかける展開になったが、追い抜きが難しいハンガロリンクではそれは致命的なハンデだった。結局3位に終わり、表彰台の上でアイルトンに『少し強引すぎるんじゃないか』と伝えたら、『我々がやっているのはレースだ。激しくて当然だろう』と言い返してきたんだ。それで、『そっちがその気なら、これからは私も遠慮なくやらせてもらう』と断りを入れて、それでお互い納得さ」


「私はラフファイトをなるべく避ける主義だったので、そう持ちかけただけで、彼がそれを嫌だというなら、次からは私も同じようにやればいいだけの話だからだ。別に喧嘩ではないから、遺恨も残らない。その証拠に、アイルトンとは仲良くなったしね。当時はそんなふうにドライバー同士が直接話し合ってルールを決められるというか、お互いに仁義を通していた。今みたいに規則でがんじがらめに縛られているのではなく、頼んでもいないのにスチュワードがしゃしゃり出てくるようなこともなかった。まあ、古き良き時代の話なんだけどね」

■桁外れの贅沢

──話を戻しますが、1989、1990年の2シーズンの間に、ルノー・エンジンがどれだけ進化したと考えていますか。アップデートの回数は多く、おそらく4、5回は仕様変更がなされていたはずです。


「最初から優秀なエンジンだったことは確かさ。それが次第に信頼性を増していった……という回答になるかな。最後の頃は、ほとんどトラブル知らずのエンジンに仕上がっていたからね。型番でいうと、1991年にはRS3になっていた。当時は週末ごとに新品エンジンを3基も投入できたし、予選スペシャルなんてものもあった。最大で500?も走ればもうお払い箱で、今とは違い桁外れの贅沢ができたというわけさ。もっと分かりやすく言うと、週末は金曜・土曜・日曜と毎日、新しいエンジンを使用していたんだ」

ウイリアムズFW13Bに搭載されたルノー“RS2”V10エンジン
ウイリアムズFW13Bに搭載されたルノー“RS2”V10エンジン


──チームメイトとの関係性についても聞かせてください。ブーツェンが言うには、誰よりも仲が良く、最高のチームメイトがあなただということです。彼はどんな相棒でしたか。


「まあ、チームメイトは誰であっても、良い関係を保つ努力は怠らなかったけどね。でも、ティエリーとはそんなことは関係なく、最初からとてもうまくいった。そうでなきゃ休日を一緒に過ごしたりなんかするものか。友情は今でも続いているしね。2シーズンをともに戦う間にどんどん絆が深まっていって、一緒に作業することが増えていった。最終的にはサーキットだけじゃなく、それ以外の仕事でも協力し合うようになっていたからね」


──ブーツェンは1989年リオで行われたテストで大クラッシュを喫し、後遺症にその後1シーズン苦しめられたそうです。その事実は知っていましたか。


「いや、そのクラッシュは記憶にないし、後遺症の話も聞いていなかった。ただ、大きなクラッシュの影響は様々なかたちで残り、なかにはひどく回復に手間取ることがあるのは知っている。私自身、1989年にシルバーストンで大きなクラッシュを演じているからね。ラジエターが壊れて、そこから漏れた水で後輪がスリップするという、どうにもならない事故だったんだ」

1990年イタリアGP リカルド・パトレーゼとティエリー・ブーツェン(ウイリアムズ・ルノー)
1990年イタリアGP リカルド・パトレーゼとティエリー・ブーツェン(ウイリアムズ・ルノー)

■ハイテクとの相性

──あなたはこの2シーズンの間に、アクティブサスペンションの開発にも関与していましたか。おもにマーク・ブランデルがテストのかなりの部分を担当していたと聞いています。


「いや、関与していない。私がアクティブカーを初めてドライブしたのは、1991年末のエストリルだ。それ以降であれば、テストもかなり行った記憶があるけどね。エストリルで何日もテストを続けて、ある日ふと気がつくとマシンの競争力がとんでもなく高くなっていた。どれほどポテンシャルがあるんだろう……って、空恐ろしい気がしたものさ。そうした作業が実を結び、1992年に連勝街道をばく進して、タイトルを獲得することになるんだ」


──1992年にフルアクティブのFW14Bが投入されましたが、あなたはマンセルほどには電子制御の恩恵を受けていないように感じました。


「私の好みからすると、ノーマル仕様のFW14の方が合っていた。それがFW14Bにバージョンアップすると、俄然ナイジェルのスタイルの方が最適だということになったんだ。当然、タイトルは彼が手にすることになって、私もそれについてはまったく異議はないけれども、メキシコGPでのパドックでパトリックから言われたことが忘れられない。『君に理解しておいてもらいたいことはほかでもないタイトルの優先順位なのだが、ナイジェルが1番で君が2番だ。それを肝に銘じていてほしい』とね」


「それは関係ないだろって正直思ったよ。優先順位があろうがなかろうが、ドライビングスタイルがマシンに合っているという意味では、ナイジェルの方が若干上なんだ。わざわざ念を押さなくたって、今年はヤツがチャンピオンになるよって言い返したかったね。なんでまた優先とかつまらないことを言うんだって、不思議に思ったものさ」


──あなたは基本的に電子機器をあまり信じていなかったという気がするのですが、本当のところはいかがですか、これは1992年に限っての話でも構いません。


「信じていないという表現は少し大げさかな。ただ、高速コーナーでGがかかってステアリングが重くなるときに、私にはとても耐えがたい力がかかったとしても、ナイジェルなら力でねじ伏せることができたのは確かだ。あのガタイと腕力があったからこそコントロールが可能なシステムで、彼が私より速かったのは当然だったんだ。それは、1991年と1992年を比べてみればよく分かる」


「1991年はまだトラクションコントロールがなくて、スローコーナーの出口では私の方が明らかに速かった。スロットル操作の繊細さでは、負ける気がしなかったからね。それが1992年になるとトラクションコントロールの導入で、ナイジェルのスローコーナー出口での欠点がうまい具合にカバーされていた。しかもコーナリング中のダウンフォースは増える一方だったから、彼の豪腕がますます冴え渡ったんだ。つまり好き・嫌いということではなくて、ドライビングスタイルに合う・合わないの問題だったわけさ」


──1991年ではほとんどの場面でマンセルを凌駕していたわけだから、1992年の状況はさぞかし悔しかったでしょうね。
「悔しい・悔しくないという話ではない。プロのドライバーなんだから、契約した以上はチームのために働くし、チームにとって最善のことをやるだけさ。私は常にそうしてきたし、チームメイトを助けることもそれに含まれている。ワールドチャンピオンになれたらもちろん最高だが、私にはあいにくそのチャンスがなかった。でも、私は自分がやったことに十分満足している。文句はないよ」


──つまりウイリアムズ時代は幸せだったと?


「もちろんさ。私のF1人生で最良の日々だったと確信を持って言える。ブラバムにいたときもアロウズ時代も楽しかったが、何と言ってもウイリアムズでの成績が突出していたからね。やっぱり結果が出た方が楽しいに決まっているよ」


──最初のお話にもありましたが、ルノーV10時代を切り開く役目を担っていたのがあなたです。手塩にかけたエンジンはその後10年近くもトップであり続けました。そういう意味でも、まさに特別な時間ですね。


「まったくそのとおりさ。ルノーとの関係も素晴らしかったからね。デュド、クリスチャン・コンツェン以下のエンジニアともうまくいっていた。彼らと一緒に仕事をするのはいつだって楽しかったし、私の仕事ぶりも評価してもらえていたはずだ。お互いのリスペクトがあるから、とても快適だったよ」


「私は結局、ウイリアムズで5シーズン強を過ごしたわけだけど、私にプロジェクトリーダーを任せれば初期の成果を出せるとチームは判断し、実際にそうだったからこそ長く起用してもらえたのだと思う。ウイリアムズを離れることになったのも、入れ替わりでアラン・プロストがやってくると聞けば、腹も立たなかった。ルノーとしては、どうしてもフランス人チャンピオンがチームに来てほしかっただろうからね」


「私がベネトンに移籍したのは、それしか選択肢がなかったからだ。そうしたら契約書にサインした1週間後にナイジェルが心変わりしてアメリカへ行くと聞かされた。アイルトンがノーギャラでもいいから走りたいとフランク(ウイリアムズ)に言ったらしいね。それを盾にフランクがナイジェルにサラリーカットを持ち出して、彼を激怒させてしまったらしいんだ」


「その後、フランクはいろいろ説得しようとしたけど、ナイジェルは意地でもチームに戻ろうとはしなかった。それで急遽CARTインディカー行きを決めたらしいのだが、そういうことならなんで私に教えてくれなかったのかなあ……。そうすれば、ウイリアムズであと数年は走れたかもしなかったのにね」

1992年に投入されたウイリアムズFW14B
1992年に投入されたウイリアムズFW14B


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『GP Car Story Vol.39 Williams FW13B』では、今回お届けしたパトレーゼのインタビュー以外にも見どころ満載。FW13シリーズ開発総責任者のパトリック・ヘッドをはじめ、車体開発に従事したエンリケ・スカラブローニ、空力を担当したエグバル・ハミディ、ルノーV10のテクニカルディレクターを勤めたベルナール・デュドら技術陣に話を聞いたほか、パトレーゼとともに2シーズンFW13シリーズをドライブし、その間に自身のF1初優勝も経験したティエリー・ブーツェンがGP Car Story初登場。さらに同時期フルタイムテストドライバーとしてアクティブサスやセミオートマの先行開発に携わったマーク・ブランデルにも貴重なエピソードを語ってくれている。


『GP Car Story Vol.39 Williams FW13B』は現在発売中。全国書店やインターネット通販サイトにてお買い求めください。内容の詳細は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12276)まで。

『GP Car Story Vol.39 Williams FW13B』の詳細と購入はこちら
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(Text:Adam Cooper / GP Car Story
Photo:SAN-EI)




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