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ジャン・アレジが語る1992年のフェラーリ。「F92Aにコスワース・エンジンが搭載されていたら勝てていた!」
2021年6月8日
2020年、F1世界選手権において4年ぶりに未勝利に終わったフェラーリは、コンストラクターズランキング6位の屈辱的な結果に終わった。F1の歴史と二人三脚で歩んできた唯一の存在であるフェラーリ、その70年を超える歴史の中で過去に15回未勝利シーズンを経験している。今年、もし昨年に続き未勝利に終わった場合、マラネロにとっては自身の歴史上2例目の「連続シーズン未勝利」の不名誉記録となってしまう。そう、逆に言えばその1例以外、フェラーリは2年以上未勝利をなんとか回避してきたことになる。その一例こそ、歴史に残るフェラーリ暗黒時代、59レース未勝利に終わった1991年から1993年までの3シーズンだ。
なかでもその中間にあたる1992年は、まさに“ドン底”のフレーズがぴったりあてはまる最悪のシーズン。そんなシーズンに生まれたのがフェラーリ・F92Aだ。
毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.36では、約30年前の歴史に残るフェラーリ暗黒時代のまさに象徴ともいえるフェラーリ・F92Aを特集する。
成績としてはまさに“駄馬”だったF92Aだが、その外観の美しさゆえに多くのファンがいる、まさに希少な存在である。フェラーリ移籍2年、ついに念願のカーナンバー“27”をまとうことになり、ジル・ビルヌーブの再来を予感させた若きジャン・アレジの存在と相まって、F92Aを愛する者、ティフォシは多かった。そんなアレジ自身、いまだにF92Aは“特別”だと語る。このページでは、6月9日発売の最新刊『GP Car Story Vol.36 Ferrari F92A』に掲載されるジャン・アレジの取り下ろしインタビューを全文公開。フェラーリのエースとして臨んだ初めてのシーズン。その中でアレジが経験した苦しみ、そして希望を赤裸々に語ってくれている。
* * * * * * * *
──1991年のフェラーリは競争力を欠き、アラン・プロストの離脱などもあって、翌年に向けてチーム体制の大幅な見直しを迫られました。組織改革がどのように進められたのか聞かせていただけますか。
「僕がフェラーリとの契約にサインしたのは1990年で、アランがチャンピオン目指して戦っていた。ところが、翌シーズンはタイトルどころか1勝もままならないという有り様だ。経験豊富なアランにいろいろ教えてもらうつもりだったのに、ファクトリーが大混乱に陥り、夏頃にはもう内戦勃発という状況だった。僕はF1にフル参戦して2年目の新参だし、厳しいなんてもんじゃなかったよ。本来ならもっと静かで落ち着いた環境で走っているはずだったのにね。とはいえ、アランから多くを学び、それが後のキャリアに役立ったことは間違いない」
──プロストが抜けてしまったのはショックだったてでしょうね。“プロフェッサー”の言葉どおり、あなたの個人教授となることが期待されていましたから。
「まったくさ。一緒に仕事をしていた時はいつだって協力的だったし、おまけにすごく速かった。だから、勉強になったという意味ではいいシーズンだったと思うけど、チームの状況があまりにも混乱していた」
──91年限りでスティーブ・ニコルがチームを出て、入れ替わりにハーベイ・ポスルズウエイトが戻ってきました。そんなさなか、ジャン‐クロード・ミジョーは、あの驚くべき空力コンセプトを練っていたわけです。
「ハーベイとミジョーがいたからこそ、自分が評価してもらえたという部分がある。僕がティレルで与えられたマシンは、当時の最先端を行くコンセプトが盛り込まれていて、それを作ったのがこのふたりなんだ。ジョン・バーナードの手法はもう時代遅れになりかけていて、でもマクラーレンはそれを捨て切れずにいた。ホンダの強力なエンジンのおかげで、かろうじてトップレベルに居座っていたという感じかな。シャシーコンセプトに多少問題があっても、エンジンさえ良ければ、レースでもそこそこ勝てるからね。その当時、文句なしのベストと評判を呼んだのがティレルだったわけ。だから、ミジョーとハーベイがチームに戻ると知って、うれしかった。僕は彼らの仕事の進め方を知っているし、あの技術力が自分のバックについているとなれば、間違いなくいい仕事ができると考えたんだ」
■フロア剛性の問題
──完成した92年型マシンをテストした感想はどうでしたか。
「調整が必要だったことは確かだね。フロアの剛性が足りなくて、たわんでしまうことが問題だった。そのせいで空力に悪影響が出て、風洞で計測した値とズレが生じてしまったんだ。フロアのねじれとかは、実際にマシンで走行してみないと分からないからね。でも、それは徐々に改善されていったから、結局のところエンジンが最大のネックだったとしか言いようがない。もうお話にならないくらい非力で、おまけによく壊れた。チーム内部で“ブローバイ”と名付けられたトラブルさ。走行中にむやみやたらとオイルを吹くので、そう呼ばれるようになったんだ。パフォーマンスが期待外れのうえに、20周もするとオイルが空になってしまうから目も当てられない。下手をすると、エンジンが丸ごと壊れてしまうんだから」
──それは大変でしたね。
「大変どころの騒ぎじゃないよ。それでチームがどういう解決策を採ったかというと、予備のタンクをひとつ搭載することだった。通常の倍のオイルを消費するから仕方ない。当然、その分重くなるけどね。しかも、 トラブルはそれだけじゃなかった。20周後くらいにまたしてもピットボードが出て、見れば『P‐oil』と書かれている。これは、オイルポンプに問題があるという合図だ。今度はオイルを循環させるポンプが駄目になって、レース序盤で脱落ということが、いったい何度あったことか……」
──最初のテストで、すでに多難なシーズンを覚悟していたということですか。
「はっきりしていたのは、フロア剛性に問題があるということさ。イモラで散々テストした結果、ウエット路面ではそれほど悪くないことが分かった。空力システムの基本はきちんと押さえられていて、それが希望の光と言えたかな。でも、F1はひとつの巨大プロジェクトなわけだから、エンジン性能があそこまでお粗末だとほとんどチャンスはなかった」
──それでも開幕戦南アフリカGPは、予選5位と健闘しました。まずまずの出来だったと言って良かったのでは?
「予選はいいとしても、レースがね……。ずっとミハエル(シューマッハー)を後方に従えて走っていたんだけど、スタート時はイエローだったベネトンがフィニッシュした時には茶色になってたからなあ(笑)」
──ウエットの走りは良かったということですが、3位表彰台を獲得した雨のスペインGPは確かに素晴らしかったですよね。
「記憶があやふやだけど、確かに表彰台に上がった記憶がある。かなり雨が激しく降っていたよね」
──モナコGPの予選4位は、マシンの進化にかなり手応えを感じたのではありませんか。
「そうだね。さっきも言ったように基本は悪くないマシンで、エンジンがすべての元凶という感じだった。ところが、エンジンの担当者は、冷却に問題があるからだとミジョーを責める。じゃあ、マシンを開けて調べてみようという話になって、そのあたりから泥仕合の様相を呈し始めたんだ。それまで縦置きだったギヤボックスを、シーズンの途中で横置きに変えるということまでやってね。がむしゃらに開発は進めるんだけど、エンジン部門とシャシー部門の間でいつも責任を押しつけ合うという具合で、どうにも連携プレーができているとは言えない状態だった」
──そのモナコGPの決勝では、シューマッハーに当てられた影響で電子制御系が壊れ、リタイアに終わっています。
「当時の彼はやたらアグレッシブだったから、あのときも随分無茶なことをするな……とあきれたものだよ」
■タンクの容量は205kg
──カナダGPで3位入賞を果たし、続くフランスGPの決勝はウエットレースになりました。ペース的にはどうだったのですか。
「みんなウエットタイヤを選択して、僕だけがスリックタイヤを履いていた。高速コーナーを抜けた先のロングストレートで、直線部分を端から端まで使って360度ターンを披露したあのシーンを見逃していたら、お気の毒と言うしかないな(笑)。ストレートエンドでようやくノーズが前を向いて、そのまま何食わぬ顔で走り続けたんだ。どこもかすりさえしなかったんだから、ウソみたいな話さ。とはいえ、またエンジントラブルでリタイアしたんだけどね」
──イギリスGPでは消火器が誤作動するという、これまた嘘みたいなハプニングが起こりましたね。
「ああ、そうだね。消火器がいきなり破裂したんだった!」
──続くドイツGPは予選5位を獲得しました。これはエンジンが良くなってきたということだったのでしょうか。
「例の“ブローバイ”は少しずつではあるけれども、解決に向かっていた。でも依然として2倍の量のオイルが必要だったし、そうしないと完走もおぼつかない。残量が少なくなってくると、予備タンクから移し替えるその手間も同じだったよ。レース中の給油がない時代だったし、燃料タンクの容量がなんと205kgもあった。それを満タンにしてスタートするわけだから、マシンバランスもパフォーマンスも、一筋縄ではいかなかった。難しいどころの騒ぎじゃないよ」
──5番グリッドからスタートしたベルギーGPは、パンクによりリタイアとなってしまいました。
「雨で始まったレースだったけど、ナイジェル(マンセル)に当てられるし、挙げ句の果てにリタイアしてしまったから、散々な週末さ」
──イタリアGPの予選3位は、エンジンがパワーアップした成果でしょうか。
「パワーもそうだけど、元々良かった空力システムがさらに進化した。レスダウンフォース仕様だと、ダブルフロアが効果を発揮するんだ。おかげでかなりのハイペースで走れたよ。でも正直に打ち明けると、エンジンはシーズンを通じて似たようなレベルだったので、結果に結びついたという印象はないかな」
■今も続くミジョーとの交流
──ポルトガルGPはスピン、日本GPでは5位、最終戦オーストラリアGPは4位という結果でした。先ほどの話に出てきた横置きギヤボックスですが、フェラーリのスタッフから聞いた話では、「ディフューザーへの空気流を邪魔してあまり良いアイデアではなかった」という意見もあったようです。ダブルフロアの考え方ともバッティングしていたと思うのですが、そのあたりはいかがですか。
「言われてみればそんな気もするけど、正直あまり覚えてはいないんだ。横置きギヤボックスを搭載したマシンは、ノーズからボディ後端に流れ るラインを始めとして、見栄えだけは結構良かったと思うよ」
──ピッチングがあまりに過激で、マシンがコーナーにうまく入っていかない話も聞きました。もし、最初からアクティブが搭載されていて、それがうまく働いていれば、別物になっていたかもしれませんね。そういった印象はありましたか。
「ピッチ過敏症というのは、そのとおおりだね。でも、フロントに装着したショックアブソーバーの問題がこれとは別に取り沙汰されていて、サスペンションがガチガチに硬い状況だった。僕のドライビングスタイルには合っていたけど、他のドライバーにはとてもじゃないが扱えるものではなかった」
──アクティブシステムが登場するのはこの年のラスト2戦で、ニコラ・ラリーニがドライブしていました。
「開発は続いていたけど、重くなるのが難点だった。確か、ニコラが鈴鹿で使っていたよね」
──チームメイトのイワン・カペリにとっては悲願とも言えるフェラーリ加入でしたが、最悪の結末を迎えました(第14戦ポルトガルGPで解雇)。気の毒だと感じましたか。
「イワンは駆け引きをするような男ではないし、彼が言っていることも個人的には反論の余地がないと思う。ただ、フェラーリというチームは、特に内部に問題を抱えている時がそうなんだけど、これ以上はないほど陰険になれるんだ。相手と目を合わせることなく、バッサリ切り捨てるというふうにね。イワンはまさにそれをやられてしまったというわけさ。フェラーリに入る前はレイトンハウスで頑張っていたし、良い仕事をしていると常々思っていたから、そりゃあ気の毒だったよ。フェラーリとの因縁は、もはや呪われているとしか言いようがないという気もするね」
──ふたりのポイント差が大きく開いてしまったのは、あなたの方が“じゃじゃ馬”を扱うのに長けていたからだと思いますか。
「それが最も分かりやすい説明になるだろうね。もちろん、イワンにもチャンスはあった。でもなぜか、彼にはスタイルを合せることができなかったんだ」
──92年シーズンにおいて、最もポジティブだった要素を挙げるとすればなんですか。
「ミジョーとハーベイがチームにいたことだ。ふたりとも私が敬愛してやまない人間だからね。ハーベイはドライバーを理解し、どう話せばいいのかを知り尽くしていた。だからミーティングだって、今みたいに長々とやったりはしない。でもせっかちな僕は、それでも急かすのが常だったけどね(笑)」
──ミジョーとの交流は、今も続ていると聞いています。親友だけど、リスペクトできる存在という間柄でしょうか。
「まさにそのとおりだよ。ティレルで一緒に仕事をしていた頃から、ずっと尊敬していた。ミジョーに限らず、スタッフに良い人が多いのが、あのチームの特徴だったんだ。かつてのメカニックやエンジニアから、今でも折に触れメッセージカードが届くしね。だから私のF1キャリアの中で最も素晴らしい時期はいつかと聞かれたら、迷わずティレル時代と答えるよ」
──そのミジョーも不運だったと思いますか。F1の空力概念を一変させるようなコンセプトを提唱したのに、成績は振るわなかったわけですから。30年が経過した今でも一種のアイデア倒れだと言う人もいますが、彼を責めるのは不公平ですよね。
「ミジョーを責めるだって? 公平とか不公平という問題じゃないよ。さっきも説明したように、あのマシンの問題はエンジンが元凶なんだ。ぶっちゃけて言ってしまえば、もしフェラーリがコスワースを搭載していたら、何勝か挙げていた……という話さ」
■チーム内のムードは最悪
──当時のチーム運営についてもお尋ねします。ルカ・ディ・モンテゼモロが復帰する一方で、ピエロ・ラルディ・フェラーリもまだ力を維持していて、チーム代表のクラウディオ・ロンバルディがふたりの間で右往左往している状況でした。指揮系統が混乱する中で、あなたは自分のボスが誰なのか分かっていましたか。
「モンテゼモロの指示に従うべきなんだろうな……って思っていたかな。ファクトリーが混乱状態だったし、いろいろな噂が飛び交って、ろくに話し合いも行なわれないまま、次々と新しい決定が下されていた。それは厄介だし、辛かったよ」
──これはロンバルディが語っていたことですが、エンジンとシャシー部門の対立を煽っていた張本人がモンテゼモロだった……という節もあるそうです。
「チーム内のムードが最悪だったのは確かだね。誰かが素晴らしい仕事をしても、組織としては問題だらけで、内輪揉めが絶えないから、理想にはほど遠い状況だった。そういう状況の中で救いになっていたのは、ティフォシの存在さ。あとは自分の意志の力。コース上で自分のできる精一杯の走りを披露することしか考えていなかったし、それで良かったのだと思う。様々な問題に巻き込まれずに済んだのだから。そういう立ち位置にいられたおかげで、フェラーリの中で自分だけの自由を手に入れ、さらに3シーズンをこのチームで過ごすことが可能になったと考えている」
──翌93年はフェラーリにとって大変革の年となり、ジャン・トッドの加入を含めてチーム体制が一新されましたね。
「ジャンの招聘が大正解だった。僕にとってみれば、少し時期が遅すぎたのが残念だけどね。余計なことを言わず、黙々と仕事をこなすという自分のスタイルを今さら崩そうとは思わなかったし、96年にミハエルが加入すると決まった段階で、自分がチームを出ていくしかないと分かっていた」
──あなたはフェラーリからF92Aを手に入れて、現在も大切に保管していると聞いています。どういった経緯で、そうなったのですか。
「92年末にフェラーリがゲルハルト(ベルガー)と契約したことがきっかけさ。ニキ・ラウダがチームの顧問に就任して、最近までメルセデスでやっていたのと同じような役割を担っていた。モンテゼモロの参謀とでも言えばいいのかな。ゲルハルトの加入が公になると地元紙のガゼッタ・デル・スポルトが、『フェラーリに救世主が現る!』とか、『ナンバー1ドライバーはベルガーで決まり!』なんてことを盛んに書き立てた。それで私はニキに電話して、溜まっていた鬱憤をすべて吐き出したんだ」
「『これは、いったいどういうことだ? ろくでもないマシンを150%の力で走らせてきたのは僕だぞ。この際だから言うが、僕はフェラーリに命を懸けているんだ。そういうドライバーを差し置いて、こんな記事を書かせるとは何ごとだ。がっかりするにもほどがある』とね。そうしたらニキが『OK。ジャン、君の言い分は分かった。ギャラを増額するということで話をつけようと思うがどうだ?』と言うんだ。ゲルハルトとの契約は今さら動かせないから、金で解決しようという魂胆さ。『誰も金が欲しいなんて言っていない』と詰め寄ると、ニキから『まあ、そう怒るな。モンテゼモロと相談するから、追って連絡する』と言われたんだ」
「しばらくするとニキから電話がかかってきて、『シーズン終了後にF1マシンを1台、進呈するから、それで機嫌を直せ』という。『ありがたく頂戴するが、ナンバー2ドライバーは絶対に願い下げだ』と釘を刺してやったよ。ニキは、『それについては心配するな』と言っていたが、確かにそうはならなかったね」
「翌年、ジャンが現場で指揮を執り始めて、ハッキリしたことがある。新品のギヤボックスや特注ノーズがひとつしか出来上がっていない場合には、それを実戦に投入することはない。2台のマシンに同時に装着するか、さもなければトラックに積んだままか、そのどちらかだったんだ」
──F92Aは、電気系やその他の付属品もすべてセットで手に入れることができたのですか。
「全部、揃っているよ。フィオラノでシェイクダウンした時に、使用済みのタイヤも自分のトラックに積み込んで自宅に持って帰ってきたが、今もそのまま置いてあるんだ。でも、一度もマシンを走らせたことはない」
──いつかはコースで出て、F92Aをドライブしてみたいですか。
「実際にマシンを走らせるとなると、費用が結構高くつくからね……。でも肝心なことは、かつてドライブしたF1マシンが自分の手元にあるということさ。シート、ハーネス、ペダル位置、すべてが自分専用にセットされた30年前のマシンが、そのまま残っているんだ。すごいことだよ。実は、90年型のティレルのマシンもあるんだ」
──実際にサーキットで走らせるとなると大変ですが、自分にとって特別なマシンを手元に置き、いつでも気が向いた時に愛でることができる。ドライバーとして、これ以上の幸福はありませんね。
「そういうことさ。よく分かってるじゃないか(笑)。最高の幸せだよ!」
* * * * * * * *
『GP Car Story Vol.36 Ferrari F92A』では、今回お届けしたジャン・アレジのインタビュー以外にも見所万歳。車体開発に尽力したジャン-クロード・ミジョー、スティーブ・ニコルスのほか、クラウディオ・ロンバルディ、エンジン担当のパオロ・マッサイ、2名のレースエンジニア、ルイジ・ウルビネリ(アレジ担当)、ジャンフランコ・ファントゥッツィ(カペリ担当)など、日本のメディアには(おそらく)初出となるようなメンバーの貴重インタビューも掲載、まさにフェラーリ・F92Aの決定本といえる内容をお届け。
特に編集部の推薦は、8ページ約10000字におよぶイワン・カペリのインタビューだ。彼がチームからいかに悲惨な目にあわされてきたか、おそらく当時を知る人にとってはカペリへの評価が180度変わることになるだろう。そのあたりはふたりのレースエンジニアの“立ち位置”からもアレジとカペリの扱い差を感じていただけるはず。
どうして“美しき駄馬”が失敗に終わったのか、ぜひ読み取っていただきたい。
『GP Car Story Vol.36 Ferrari F92A』は、6月9日発売。全国書店やインターネット通販サイトにてお買い求めください。内容の詳細と購入は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11904)まで。
(Text:Adam Cooper
Translation:Yutaka Mita)
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予選 | 15:00〜 | |
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第19戦 | アメリカGP | 10/20 |
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第22戦 | ラスベガスGP | 11/23 |
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