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ヤルノ・トゥルーリが語る“無限ホンダ”「彼らはこの世界で大事なことを心得ていて、どうすれば勝てるかを知っていた」

2021年9月8日

 来年2022年は、無限ホンダのF1参戦開始からちょうど30周年の節目の年となる。1992年から2000年までの147レースを戦い、“非メーカー系”のエンジンでありながら4つの勝利を残したその実績は、F1の歴史的に見てももっと評価されて然るべき偉業である。その4勝はどれもトップチームではない、勝利とは縁遠い中堅チームとともに成し遂げたものなのだから。


 ホンダF1第二期活動の“遺産”を引き継ぐかたちで無限ホンダのF1プロジェクトがはじまった。当初はまさしくマクラーレンやティレルに搭載されていたV10ベースのエンジンで戦っており、あの時代に多く見られた“エンジンメーカー”のひとつに過ぎなかった。その姿勢に変化が見られのは1994年のイタリアGPに持ち込まれた“新時代エンジン”の開発からだと言える。ここから無限ホンダは『参戦しているだけのメーカー』から『戦うメーカー』にシフトチェンジした。


 リジェとのジョイントで1996年のモナコGPでF1初勝利をあげるのだが、無限ホンダが本当の意味で勝利に近づいた最初の時は、1997年のプロスト時代だ。


 この年の大きな変化は1991年以来、F1にタイヤ戦争が勃発したことにある。長く続いたグッドイヤーのワンメイクがブリヂストンの参入により、戦力分布に大きな変化をもたらした。ブリヂストンの恩恵をもっとも受けたのが無限ホンダV10を搭載したプロストだった。チームのエースドライバーであるオリビエ・パニスは、開幕戦から連続して表彰台に立つ活躍で、いつ勝利してもおかしくない状況にあった。そのパニスがまさかの事故による負傷で7戦の欠場を余儀なくされる。


 その時、代役に抜擢されたのがこの年ミナルディからデビューしたばかりのヤルノ・トゥルーリだった。マニクールでの初テストでトゥルーリの走りを目の当たりにした当時無限ホンダF1のプロジェクトリーダー坂井典次は、次元の違う速さを感じたという。


「通常200km/hで走り抜けるコーナーを220km/hで駆け抜けたのです。200km/hのスピードに対して220km/hは1.1倍。そうするとダウンフォースは二乗に効いてくるので1.2倍くらいのダウンフォースになります。20%ほどダウンフォースがあがる計算です。そうすると今まで200km/hで「おっとっと」って感覚で走ってたところも220km/hでのダウンフォースなら踏ん張りが効く。その見極めを初めて乗ったクルマでできてしまうのは驚きでした」
 
“1冊=1車種”で歴代F1カーを特集する『GP Car Story』では、年に1度だけ異なるテーマを扱う“スペシャルエディション”を刊行。ドライバー、チーム、レース、デザイナー、これまで扱ってきたテーマは多岐に渡るが、今年は初めて『エンジン』を特集。無限ホンダの9年間を深掘りする。


 今回はその発売を記念して、ヤルノ・トゥルーリのインタビュー記事を全文……どころか誌面の都合でカットせざるを得なかったところも復活させての“完全版”をお届けする。


 残念ながら結果はともなわなかったが、若き時代のヤルノ・トゥルーリがF1でその名を上げる機会となった無限ホンダとの出会いを懐かしんでもらいたい。


* * * * * * * *


──オリビエ・パニスが1997年カナダGPでクラッシュしたことから、あなたにプロストGPでドライブする機会がめぐってきました。それまで乗っていたミナルディとは、ずいぶん大きな違いがあったのではありませんか。しかもあなたは前年までF3で戦っていて、飛び級でF1にステップアップしたばかりでした。


「いろいろな面でギャップは大きかった。まず第一に、ミナルディではV8エンジンを使っていたが、プロストの無限ホンダはV10で、それはもうまるで別物だった。忘れないでほしいのは、私が前年までF3にいて、せいぜい600馬力のV8に何とか慣れ始めたばかりだったということだ。それが突然、はるかにパワフルでパワーバンドも広い、実質的なワークスエンジンを積むマシンに乗せられたんだ。あの無限ホンダのパワーと音は、一生忘れられないだろうね。マニクールで初めてドライブした時の感動は、生涯私の心に残ると思うよ」


──無限ホンダの人々と仕事をしてみて、どんな印象を受けましたか。


「素晴らしいのひと言に尽きる。彼らは本当に仕事熱心で有能だったし、ただレースに参加して代価を受け取るためではなく、勝つことを目指してF1に来ていた。そればかりではない、無限ホンダは供給チームをカスタマーとしてではなくパートナーとして接し、その姿勢は真のプロフェッショナルだった。グランプリで勝てるエンジンを開発し、運用していく会社は、まさしくこうあるべきと思わせる水準でね」


「1996年の終わりまでに、彼らはポディウム数回に加えて優勝も経験していて、1997年に向けて期待は高まっていた。目標はすべてのレースで上位を争うことに置かれ、チームには十分にそれを達成できるエンジンが供給されていたんだ。1997年当時の私の印象を率直に言えば、エンジンに関して欠けているものは何もなかった。エンジンには優勝を争える競争力があったのに、シャシーの方に足りない部分がいくつかあったんだ」


──1997年のプロストのシャシーに関して不満な部分はありましたか。


「バランスの良いクルマで、競争力もそれなりにあった。ただ、基本的にはベネトンの影響が色濃い1995年のリジェJS41の発展型で、バランスは悪くなかったものの、コンセプトとしてはもう他のチームから2年遅れていた。その間、ライバルは着実にクルマの開発を続けていて、明らかに差を付けられていたんだ。1997年のプロストの最大の強みは、ブリヂストンタイヤにあったと思う。特にバルセロナ、ホッケンハイム、A1リンクといったサーキットで、ブリヂストンは優秀なパフォーマンスを発揮してくれた」


──あなたはプロスト移籍後、まだ3戦目のドイツGPで4位に入賞しています。しかし、契約上最後となったオーストリアGPでは途中まで堂々とレースをリードしながら、エンジンブローでポディウムフィニッシュを逃しました。結局、あなたにとってプロストでの最初のシーズンは、速さが結果につながらないまま、アンチクライマックスで終わりました。


「そのとおりだ。どうしたわけか、1997年シーズンの終盤に向けて、無限ホンダ・エンジンに信頼性の問題が多発するようになった。私のクルマだけではなく、ナカノ(中野信治)の方もね。オーストリアではエンジンを2基失った。1基は予選で壊れて、私はピットまで駆け足で戻り、Tカーに乗り換えなければならなかった。そして、もう1基はレース中にトラブルを起こし、リタイアにつながった」


「エンジンの信頼性の低下はその少し前から目立ち始めて、私にとってのシーズンの終わり、つまり復帰したオリビエ(パニス)にシートを返す頃には一段と悪化していた。何が本当の原因だったのか、私には最後まで分からなかったが、あのシーズンの終盤にかけて無限ホンダに何かしら問題があったことは確かだ。不思議なことだよね。オリビエが乗った序盤戦ではスペインで2位になったりしているし、私の最初の2〜3戦でもエンジンはパーフェクトだったのだから。途中で何かが変わったのは間違いないけど、本当のところを知っているのは無限ホンダの人たちだけだ」


──無限ホンダは翌年からジョーダンに供給することが決まり、ドライバーとして1996年の王者デイモン・ヒルが加わることも決まっていました。1998年に向けての開発と、実戦でのテストを始めていたのではないでしょうか。


「いや、少なくとも記憶にある限りでは、そのように感じたことはなかった。通常のエンジン開発のプロセスで、彼らも予期しなかった何らかの問題が起きたのだと思う」

ヤルノ・トゥルーリとチームオーナー1年目のアラン・プロスト
ヤルノ・トゥルーリとチームオーナー1年目のアラン・プロスト

無限ホンダ MF301HB V10エンジンを搭載したプロスト JS45
無限ホンダ MF301HB V10エンジンを搭載したプロスト JS45

負傷したオリビエ・パニスに代わり7戦に出走したトゥルーリはドイツGPで4位に入り、自身初入賞を果たしている
負傷したオリビエ・パニスに代わり7戦に出走したトゥルーリはドイツGPで4位に入り、自身初入賞を果たしている

■リヤタイヤの消耗が早すぎたジョーダンのシャシー

──あなたはプロストにとどまり、プジョーエンジンで2年間戦った後、2000年にジョーダンへ移籍して無限ホンダとの再会を果たしました。彼らの顔ぶれ、仕事の手法、モチベーションなどに変わりはありませんでしたか?


「ああ、まったくね。ジョーダンへ行ってみると、無限ホンダの関係者はみんな知っている人ばかりで、手法もアプローチも全然変わっていなかった。日本の人たちと一緒に仕事をするのは、私にとって少しも難しいことではない。それこそカート時代から、彼らの仕事の進め方を知っているからね。カート時代にはブリヂストンと多くの仕事をして、その経験から日本人のエンジニアやメカニックたちと、ごく自然に打ち解けられるようになったんだ。彼らとは、いつもいい関係を築いて仲良くやっていた。逆にチームメイトの多くは、日本人のメンタリティと仕事のやり方を理解できずに困惑していたから、その点で優位に立てたこともあると思う。私は彼らに対してどう振る舞い、どうコミュニケートすべきかを知っていた。日本の人たちはイギリス人、ドイツ人、フランス人とは意思の伝え方が違うから、それを理解していることは大きなアドバンテージになる」


──1997年の時点では、無限ホンダ・エンジンより優れていたのはおそらくルノーだけでしたが、2000年になるとメルセデスが大きく進歩し、フェラーリとの差もだいぶ縮まっていました。ジョーダンをドライブしてみて、もはや無限ホンダは勝てるエンジンではないと感じましたか。


「そんなことはないよ。少なくとも、私に言わせればね。彼らがジョーダンに供給したエンジンは素晴らしいもので、競争力もあったと思う。問題はエンジンではなく、シャシーの信頼性が低いことにあった。さらに言えば、あのシャシーは新品タイヤではすごいスピードで走れるのに、タイヤの消耗が信じられないほど早かった。3周もするとリヤタイヤが完全に終わってしまい、その後はトラクション不足に苦しみながら、何とか持ちこたえるしかなかったんだ。モナコGPとベルギーGPでフロントロウに並び、2〜3列目につけることも多かったという事実が、あのシャシーに速さはあり、エンジンも決して悪くはなかったことを証明している」


「当時の私の印象として、エンジンは依然としてトップレベルで、シャシーにもポテンシャルはあったと思う。ただ、リヤタイヤの消耗が早すぎるという問題を解決できず、好成績をあげる機会を逸していたんだ」


──あなたがジョーダン時代に感じた、無限ホンダの強みはどんなところでしょうか。


「足りないものは何もなかった。レースで勝てるレベルのパワーがあり、ドライバビリティも文句なしだったから、コーナーやサーキットの性格を問わず、そのアドバンテージを生かして戦えた。優勝を争えるエンジンだったのは間違いない。メルセデス、フェラーリ、あるいはBMWのエンジンを使うドライバーたちと戦って、どこかで劣っていると感じたことは一度もなかった。結局のところ、ジョーダンが競争力のあるクルマを作れなかったために、無限ホンダは彼らに相応しい成績を得られなかったんだ」

2000年モナコGPではマクラーレン勢を抑え、ミハエル・シューマッハー(フェラーリ)に続く2番グリッドを獲得した。
2000年モナコGPではマクラーレン勢を抑え、ミハエル・シューマッハー(フェラーリ)に続く2番グリッドを獲得した。

2000年ベルギーGPでもフロントロウにつけたがタイヤの消耗の早さに悩まされる結果に
2000年ベルギーGPでもフロントロウにつけたがタイヤの消耗の早さに悩まされる結果に

無限ホンダ MF301HE V10エンジンを搭載したジョーダン EJ10Bを操るヤルノ・トゥルーリ
無限ホンダ MF301HE V10エンジンを搭載したジョーダン EJ10Bを操るヤルノ・トゥルーリ

■トゥルーリがF1界で名を上げた一戦

──無限ホンダの人々とのミーティングは、あなたが経験したプジョーやルノーのミーティングとはどこか違うところがあったのでしょうか。


「日本の人たちは、いつも規律正しく組織立っている。ミーティングでも、思い付きで何かを言って、周囲の反応を見るようなマネは絶対にしない。言おうと決めていたことを言い、やろうと決めていたことをやり、その枠から踏み出したりはしないんだ。そして、たとえ少し違う考えを思いついたとしても、間違いないと信じていることだけを言う。だから、彼らとのコミュニケーションでは、こちらも明瞭かつ簡潔に伝える努力を心掛けないといけない。大演説を打ち上げる必要はない。あくまで基本的なことを重視し、脇道に逸れないようにするんだ」


「けれども、彼らの本心を理解するのは簡単なことではなく、彼らが何を望み、何を目指しているかを完全に把握するには、ミーティングが終わった後も対話を続けていく必要がある。なぜなら、日本の人たちは相手方への敬意から遠慮をしがちで、面と向かって『あなたは間違っている』とは言わないからだ。こちらとしては、彼らに言われた内容から推測して、そのあたりを正しく見極めないといけない。これには時間がかかるし、忍耐も求められる。彼らと絶えずコミュニケーションを取り合う心掛けが重要だという理由はそこにあるんだ。ヨーロッパの人間はもっとダイレクトで辛辣だが、日本人は対立を好まず、『あなたは間違っています』と正面から直接的に言うことで、相手を怒らせたくないと思っているから」


──1999年にはハインツ-ハラルド・フレンツェンがジョーダン・無限ホンダで2勝を挙げ、ドライバーズ選手権3位に入りました。その翌年にチームに加わったあなたは、同じように勝てるクルマを与えられず落胆したのではありませんか。


「そうだね。1999年のジョーダンは本当に速くて、彼は残り2戦というところまでタイトルを勝ち取る可能性を残していた。先ほども言ったように、2000年のクルマにはリヤタイヤの消耗が早いという弱点があり、もうまるで勝ち目はなかった。そして、彼らのシャシーはメカニカルな問題もいくつか抱えていて、それによるリタイアがあまりにも多すぎた」


──あなたの無限ホンダ時代のハイライトは、どのレースでしょうか? プロストとジョーダンの両方について聞かせてください。


「パニスの代役としてシーズンの半分をドライブした1997年では、やはりオーストリアGPだね。それがプロストでの2年半を通じて、一番のハイライトでもあると思う。1997年のタイトルウイナー、ジャック・ビルヌーブを抑えてレースの約半分をリードしたのに、エンジンがブローアップして私の希望は文字どおりに煙となって消えた」


「予選はTカーで3番手につけた。それも最後の1周でね。レースのスタートは文句なしで、その直後にミカ・ハッキネンのエンジンが壊れて、私がレースリーダーになった。そして、タイヤのグリップが落ち始める前にジャックとの差を広げていたのだが、ピットストップで逆転されてしまった。ピットに入る前の数周のペースがあまり良くなかったんだ。あのレースでは、スチュワートのルーベンス・バリチェロも、同じ理由でジャックに抜かれたはずだ。だけど、ルーキーがもう少しでワールドチャンピオン候補に勝ちそうになったのは、それだけでも大したことで、私がF1の世界で名を上げる機会にもなった」


「ジョーダン時代になると、残念ながらハイライトは予選に限られる。けれども、ドライバーの腕が物を言うモナコやスパ・フランコルシャンのようなサーキットで、私はフロントロウのグリッドを獲得し、フレンツェンにも大きなタイム差をつけた。あの2年間では、それが最高の思い出だね」


──では、最後の質問です。「無限ホンダについて話してほしい」と言われた時、あなたが真っ先に思い浮かべるのはどんなことですか。


「まず、ホンダまたは無限ホンダとして、彼らはF1の歴史に大きな足跡を残した。そして、ホンダの第一期活動から数えれば長い年月にわたって、このスポーツと選手権を何度となく完全に制覇した。つまり、彼らはこの世界で大事なことを心得ていて、信じられないほど有能で、どうすれば勝てるかを知っている人々であり会社なんだ。私が思い浮かべるのは、まあそんなところだね。彼らはもっと多くの称賛と尊敬を集めて然るべきだと、私が常々思っている理由もそこにある」

ヤルノ・トゥルーリ
2000年、ジョーダンに移籍し、再び無限ホンダエンジンを操ることとなったヤルノ・トゥルーリ


* * * * * * * *


 ヤルノ・トゥルーリは、いまだに坂井典次と再会するたびに「お前のせいで初優勝を逃した」と笑いながら語るのだという。


 現在発売中の『GP Car Story Special Edition MUGEN HONDA 1992-2000』では、今回お届けしたヤルノ・トゥルーリのほか、オリビエ・パニス、ジョニー・ハーバートのインタビュー、鈴木亜久里&坂井典次、そして無限創業者の本田博俊&橋本朋幸M-TEC社長の対談や、さらには現存する無限ホンダ・エンジンをバラしての解説企画など読み応えある企画が満載だ。


 『GP Car Story Special Edition MUGEN HONDA 1992-2000』は、全国の書店やインターネット通販サイトで発売中。内容の詳細と購入は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12016)まで。



9月8日発売の『GP Car Story Special Edition MUGEN HONDA 1992-2000』
9月8日発売の『GP Car Story Special Edition MUGEN HONDA 1992-2000』



(Text:Luis Vasconcelos
Translation:Kenji Mizugaki)




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