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危険分子扱いされたライコネンのF1デビュー秘話。初陣で6位入賞の快挙にも「前にまだ5人いる」

2021年3月12日

 2021年は、キミ・ライコネンがF1デビューを果たしてからちょうど20年のメモリアルイヤー。途中、F1から離れた時期もあったが41歳となった今も、あの時と変わることなくF1を走り続けている彼はまぎれもなく“レーサー”なのだろう(それは同じ年にデビューし、今年復帰するフェルナンド・アロンソも同じだと言える)。


 20年前、F1デビューを目前にしたライコネンの前に大きく立ちはだかったのがライセンス問題だ。当時21歳、年齢的には問題ないが、それまでの4輪レースの経験がわずか23戦、それもフォーミュラ・ルノーとフォーミュラ・フォードだけで、F3やF3000も未経験。口煩いF1サーカスの古参たちは、此れ見よがしにライコネン起用を発表したザウバーを批判した。


 一種の仮免状態でデビューしたライコネンがデビュー戦で見せた活躍はあえてここで書く必要もないが、前述の古参たちを黙らせたことに違いはない。しかし、彼のデビューは曰く付きだった事実は歴史を語る上で避けることはできない。


 毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』。最新刊のVol.35では、ライコネンのF1デビュー20周年を記念して、彼が最初に駆ったGPカーである2001年シーズンのザウバーC20を特集。


 このページでは、ふたりのキーパーソン、ライコネンの個人マネージャーのスティーブ・ロバートソンと、チームマネージャーを務めていたベアト・ツェンダーが語部となって、危険分子扱いされたひとりの若者がスターダムにのし上がるまでデビュー秘話を紹介する。ページの都合上、本誌掲載版ではカットされた部分も復活させたノーカット版でお届けする。


* * * * * *

■向かうところ敵なし

 キミ・ライコネンのキャリアパスは、いろいろな意味で異例ずくめとも言うべきものだが、中でもとりわけユニークなのがそのスピード出世ぶり。なにしろレース出場経験がわずか23戦で、ノービスクラスのフォーミュラ・ルノーから最高峰のF1まで、一気にジャンプアップしてしまったのだ。スーパーライセンス取得資格が厳しくなったこともあり、キミのような大躍進はその後起きていないし、二度と繰り返されることもないだろう。


 若干二十歳のライコネンがブリティッシュ・フォーミュラ・ルノーを席巻したのは2000年のこと。今は亡きデビッド・ロバートソンとその息子スティーブが率いるマネジメントチームがその面倒を見ていた。ロバートソン親子は、ジェンソン・バトンとウイリアムズのマッチングも実現させており、首尾良く“二匹目のドジョウ”を捕まえたことは後のバトンの実績からも明らかだ。


「フォーミュラ・ルノー時代のキミは、単にレースで勝つだけじゃなく、その勝ち方がハンパじゃなかった」とスティーブは言う。「ラップレコードをすべて塗り替え、2位以下に15〜20秒の大差をつけての圧勝というケースがほとんど。戦う相手は自分自身しかいないという感じで、独り異次元のレースを繰り広げる。そういうメンタルが確立されていて、だからこそ向かうところ敵なしの独走を演じることができたんだ。どれほど上のレベルであろうと、戦う心構えという点では、キミはまったく問題なかったよ」

■F1初走行

 ザウバーが名乗りを挙げたのは、ペドロ・ディニスとチームの関係が2000年の夏頃からぎくしゃくし始めていたことも無縁ではなかろう。メインスポンサーであるレッドブルの息がかかったエンリケ・ベルノルディが当時ザウバーのテストを担当しており、いちいちこれと比較されることにディニスが苛立った、というのがその理由だった。


「最初からペーター・ザウバーと直で交渉を進めた」とロバートソン。「将来有望な若手を獲得すれば、それはチームにとって大きなチャンス。キミのずば抜けた才能は誰が見ても一目瞭然だし、引き取り手はほかにいくらでもいるから長くは待てない、と説得を試みた。ペーターは少し迷っていたようだが、私の父がスーパースターになる逸材だと太鼓判を押し、ついにムジェロでテストすることに同意したんだ」

キミ・ライコネン(右)の個人マネージャーを務めていたスティーブ・ロバートソン(左)
キミ・ライコネン(右)の個人マネージャーを務めていたスティーブ・ロバートソン(左)


 当時ザウバーのチームマネージャーで、今もその地位にあるベアト・ツェンダーにとっては、これはどうやら寝耳に水の話だったらしい。


「ロバートソン親子がドライバーマネジメントを手掛けているのは聞いていたが、ほとんど付き合うこともなかったので、キミの存在も知らなかった。ムジェロでキミをテストする、といきなり言われても面食らうわけさ。当時のキミはA級ライセンスさえ持っていなかったんだから無理もない」


「F1テストでもそれが必要だとなって、大慌てでフィンランドの自動車協会に申請したのを憶えている。ライコネンという苗字も初耳で、綴りを教わったりしてさ。2000年9月12日が彼のF1初走行。テストは3日間を予定していて、ほかにマクラーレンとフェラーリが来ていたな」


 ロバートソンも当時のことは今でもよく覚えているという。「1周だけ速く走ってピットに戻る、それを4、5回は繰り返したかな。急にやると首の筋肉を痛めてしまうからね。なので、初日のキミはせいぜい30周くらいしかしていないが、それでも最後の方はかなりの好タイムが出ていた」


「我々は不思議とも思わなかったが、ザウバーのエンジニア連中は早くも興奮気味で、初日をパスしていたペーターとウイリー・ランプが翌朝、押っ取り刀で駆けつけたほどだった。するとキミが最初の10周かそこいら最速を連発して、ペーターが喜んだのなんの」

■ミハエル・シューマッハーの後押し

「類い希な才能の持ち主だということは、キミの走りを見て一発で分かったよ」とツェンダーも言う。


「初めて乗る900馬力のマシン、しかも走り出して20周そこそこでペドロのコンマ8秒落ちは驚きと言うほかない。おまけに2日目に入ると、ペドロの初日のタイムを上回っていた」


「日が暮れる頃、ミハエル・シューマッハーがわざわざやって来て、『どっからあんな子を見つけてきたんだ?』と尋ねたくらいだからね。『後ろで見てたが、マシンコントロールがめちゃ巧いので驚いた』だとさ。ミハエルのこのコメントも、冗談抜きでチームの決断を後押ししたと思うよ」


「レースへの献身と情熱が桁違い、と感じさせるドライバーがほんの一握りだが存在する。口数が少ないのが彼等に共通した特徴で、声高に意気込みを語ったりしないぶんだけ、行動は雄弁というタイプ。キミがまさにそれなんだな」


「グループCを戦っていたときのミハエルもそうだったし、ロバート・クビサにも同じものを感じるね。欲しいものを絶対手に入れずにはおかない、という強いオーラを発散させている。キミのそれは、一途にスピードを追い求める純粋さの現れだと思うんだ」

■構想の主軸に据える

 2週間後にやはりムジェロで行なわれた2度目のテストで、キミは終始ベルノルディを上回るペースを披露した。そうなると話は早い。ザウバーは、ライコネンを構想の主軸に据え翌年の戦略を練り始めた。相方を務めるニック・ハイドフェルドは、マクラーレンのテストドライバーからの、これまた気鋭の抜擢である。


「ムジェロのテストで採用を決めたのはいいが、スーパーライセンスを手に入れるのがひと苦労だった」とツェンダー。「FIAの同意を取り付け、バーニーからもOKをもらわないといけない。ライバルチームへの根回しはペーターの出番だが、これがまた一筋縄ではいかないんだな。方々から非難を浴びたと聞いているよ」


「あるチーム代表は、ペーターが正気を失ったとまで言いふらしたものだが、その半年後にはキミに唾をつけていたんだから呆れる。誰のことか、言わなくて分かるよね」


「また、キミ獲得は同時にレッドブルとの決別を意味していた。彼等はベルノルディを推していて、キミを採ることには反対だったのさ。でも、F3000で丸1年ベルノルディを担当した私から見ても、素質といい取り組み方といいキミの足元にも及ばなかったな」

ペトロナスエンジンという名のフェラーリ製エンジンが搭載されたザウバーC20。この年、ザウバー史上最高位のコンストラクターズ選手権4位となった。
ペトロナスエンジンという名のフェラーリ製エンジンが搭載されたザウバーC20。この年、ザウバー史上最高位のコンストラクターズ選手権4位となった。

■革命闘志のよう

 政治的なゴタゴタから遠ざけておきたいという配慮も働いたのだろう。ザウバーはキミに丸一月の肉体強化訓練を施すべくオーストリアに送り出すことにした。その専属トレーナーとして指名されたヨゼフ・レベラーは、故アイルトン・セナのもっとも身近なスタッフとして長年仕え、その後ザウバーに身を寄せた優秀な理学療法士だ。


「チームが半ば強制的に進めたことがキミには面白くなかったのだろう。最初の2日間はヨゼフと口も利かなかったそうだよ。高低差のある山道をイヤというほど走らされて癇癪玉が破裂しそうだったのが、F1ドライバーに不可欠な準備だと諭したら素直に従ったみたいだね」とロバートソンは話すが、一方でペーターは、ライコネンには人にはない特別な何かがあるとも感じていたようだ」


「周りはF3やF3000を勝ち抜いてきた猛者ばかり。そんななか、年端もいかず孤軍奮闘する姿が、エスタブリッシュメントに立ち向かう革命闘士のようにも見えたのかもしれない。前例のない飛び級を果たしたことで、お門違いの批判を散々浴びた。モータースポーツを破壊するつもりか、といった投書がFIAに舞い込んだりしてね」


「ジャック・ビルヌーブなどは批判の急先鋒を務めていたっけ。結局キミは、メルボルンの開幕戦に出場するため、FIAが審査するヘレスのテストを受けなければならなくなった。難なくパスしたんだけどさ」

■「前にまだ5人いる」

 12月に行なわれたそのテストは、ライコネンにとっては未体験のウエット走行も含まれていた。この難関を無事クリアしたことが功奏したのか、FIAが速やかにスーパーライセンス発給を決め、彼は2001年開幕戦のグリッドに並ぶ権利を手にしている。
 
 ただし、マックス・モズレーFIA会長から“あくまでも暫定措置”との注文が付いており、メルボルンのパフォーマンス次第では取り消しとなる可能性もあったという。


 迎えたオーストラリアGPは、ライコネンにとって通算24度目の公式戦。しかし緊張する素振りも見せず、予選13位の快走を披露した。


「メディアの注目度はそりゃあすごかった」とロバートソン。「新聞や雑誌はどれもヘッドラインで取り上げていたからイヤでも目に付く。我々が読んでいた記事を彼も目にしていただろうから、大変なプレッシャーがあったはずだ。しかし、それでもキミは自分のやり方を一切曲げず、普段どおりの自分を貫いた。傍で見ている限り、何物も彼を動揺させることはできない、と思えたものだよ」

チームマネージャーを務めていたベアト・ツェンダー(中央)
チームマネージャーを務めていたベアト・ツェンダー(中央)


 ツェンダーによると、後に有名になる“アイスマン”のあだ名はまだ生まれていなかったとのこと。


「誰が言い出したのか知らないが、チームがそうしていて然るべきだった。あんなにクールでつねにリラックスしている。すべてのスタッフが気付いていたことだったからね。開幕戦のときも、もうグリッドに出る時間だというのに、どこにも姿が見えないということがあった。全員でキミを探し回るが、なかなか見つからなくてね。


 オフィスの中に毛布で覆われた配膳卓があって、なんとキミはその下で、ペーパーナプキンのロールを枕に爆睡していたんだ。ヨゼフが揺り起こし、『あと5分で走り始めるんだぞ』と知らせると、『あと1分寝かせて』ときた。まったく、信じられないほどの強心臓だよ」


 ライコネンがメルボルンで初陣を飾った2001年当時は、上位6位までにしかポイントが与えられない。7位でフィニッシュしたが、オリビエ・パニスが黄旗でオーバーテイクしていたことが発覚し、繰り上がり6位入賞でデビュー戦にしてGP初ポイント獲得という快挙を達成することになった。


「それが分かったときキミはもうサーキットを後にしていたので、ホテルに電話して伝えたんだ。初めてのレースで6位、1ポイント獲得はすごい、おめでとう、って。大喜びするかと思いきや、『でも僕の前にまだ5人いるし』と返ってきてあとの句が継げなかった」

■水面下の打診

 イモラでは走行中にステアリングがすっぽ抜ける珍事に見舞われながらも、冷静沈着に対処してあわやの惨事を回避、チームを感心させるということも起きている。オーストリアでは黄旗無視の判定がパリのFIA本部まで持ち込まれるも、無罪を勝ち取り、シーズンベストとなる4位をマーク。モントリオールでもやはり4位に入って、出場資格に対する疑義は払拭され、誰もがライコネンの実力を認めたのだった。


「マクラーレンの横恋慕は、6月頃にはもう始まっていた」とツェンダーは語る。「モントリオールで、シルク・ド・ソレイユのオーナー、ギィ・ラリベルテの自宅に招待されるということがあって、そこにロン・デニスとミカ・ハッキネンも来ていた」


「人目を憚ることなくキミにアプローチしてきて、それが余りにも見え見えなので唖然とした覚えがある。もう、なりふり構わずという感じでさ」


「ロンは、最年少チャンピオンにしてやるとか、散々甘言を弄したらしいよ。もっとも、キミの才能を考えればそれも決して夢物語ではないし、まあロンがそこまで惚れ込んでいた、ということなのだろうね」


「ザウバーとは3年契約を結んでいたが、より良いオファーがドライバーにもたらされたらどうするか、はいつも悩ましい問題だ。金銭問題はさておき、ドライバーの将来を優先してやりたい、という気持ちが働くからなんだ」


 その後マクラーレンのアプローチは、水面下の打診から正式な交渉へと移行してゆく。ポイントでライコネンを上回っていたハイドフェルドにとって、これ以上腹立たしいことはあるまい。


「そりゃそうさ、ロンはニックの契約主でもあるのだからね」とロバートソン。「それだけキミの能力を買っていたということで、フットボールで言えばマンチェスター・ユナイテッドから誘われたに等しい。来年も同じ話が来るとは限らないし、ザウバーもさぞかし迷ったことだろう」


「ペーターは、できればもう1年キミを置いておきたかったようだが、彼のためを思って手放す決心をしてくれたんだ。でも、見返りもしっかりあって、契約を譲渡した資金で彼等は風洞実験施設を新設することができた。なんでも、“キミのウインドトンネル”と呼び習わしているそうだよ」


 ライコネンのF1デビューイヤーの最後を飾る鈴鹿は、サスペンションの破損でスタート直後にコースアウトというアンチクライマックスで幕を閉じた。日程をすべて終えたその夜、F1関係者の溜まり場として知られる“ログ・キャビン”に姿を現したライコネンは、ロン・デニスがまるで実の父親のように寄り添う様子など、すっかりマクラーレンに溶け込んでいるかに見えて感慨を誘ったものだ。

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『GP Car Story Vol.35』では、今回お届けしたスティーブ・ロバートソンとベアト・ツェンダーが語るエピソードのほかにも、見所は万歳! ライコネンのデビューばかりがフォーカスされるクルマではあるが、C20が記録したランキング4位は、コンストラクター『ザウバー』として現在も最高成績として残っている(2008年の3位はBMWザウバーであり、記録上は別コンストラクター扱い)。


 搭載されていたペトロナス・エンジンの責任者である後藤治は、本誌掲載インタビューの中で、完全なカスタマーエンジンであったことを認めていることからも、彼のコメントは車体性能の高さを証明したと言える。
 
 その車体デザインに携わったセルジオ・リンランド、レオ・レス、ウイリー・ランプのインタビューのほか、すべてが結実したC20を駆り、ザウバー最高成績を残したライコネンとニック・ハイドフェルドのロングインタビューももちろん収録。結果的にキャリアの明暗が分かれたふたりのドライバー。その結末を知っているからこそ、あの時のふたりが置かれていた状況に思いを馳せながら読んでいただきたい。


『GP Car Story Vo5.34 Sauber C20』は全国書店やインターネット通販サイトで発売中。内容の詳細と購入は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11793)まで。



(Text:Adam Cooper
Translation:Yutaka Mita)




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