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【F1豆知識】今はなき『予備予選』の歴史。牧歌的な時代が生んだ苛烈な戦いと現実

2026年1月2日

 現在のF1世界選手権は、新規参戦のための敷居が極めて高い。ドライバーであれば、持ち込める資金(スポンサー)やスーパーライセンス取得に加えて、F1チームとの契約が必要。チームであれば、巨額を要する工場の建設や機材の購入、人材確保のための資金、さらにはF1の商業権を司るFOM(フォーミュラワン・マネジメント)の認可が必要である。


 ドイツのアウディがザウバーを買収して合法的かつ速やかにF1参戦を実現した一方、アメリカのモータースポーツ企業アンドレッティ・グローバルが、挑戦的なやり方で茨の道を歩んだのは読者の皆さんもご存じのとおり。後者はGM/キャディラックの支援を受け、ようやく新規参戦を実現した。ちなみにF1チームの新規参戦は、同じアメリカを国籍とする2016年のハースF1以来となる。


 もっとも、牧歌的な時代のF1は新規参戦に対してかなり緩やかだった。新規参戦チームはF1の技術規則に準じた車両を独自に用意するもしくはワークスチームから年式落ち車両を手に入れ、現在よりもはるかに曖昧だったスーパーライセンス取得基準をクリアしたドライバーを起用するだけで、フェラーリやマクラーレン、ウイリアムズやロータスといったチームに挑む権利を手にできた。だからこそ、1980年代はF1よりも下のヨーロッパF2/国際F3000に参戦していたチームがこぞって新規参戦した。

 その極まりが1989年である。公式記録に残る限りでは、F1史上最多の20チーム/コンストラクターが最大39台参戦する大盛況。これほどまで多く参戦できたのは理由があった。フェラーリ、ホンダ、ルノーといったいわゆるワークスエンジンを手にできなくとも、お金で買えるフォード・コスワースやジャッドといったF1参戦可能なエンジンが豊富に市場へ出回っていたからである。


 しかも、F1への新規参戦にあたっては資金面でも、チーム側の敷居は現在よりもはるかに低かった。当時のトップチームで2台体制のフェラーリやマクラーレンが年間予算100〜150億円で運営していた一方、ボトムチームは1台体制のコローニやユーロブルンが10億円未満で運営した。現在のF1はコストキャップがあっても、当時のトップチームの年間予算の2倍以上を費やさなければ成り立たない。

1989年、1台体制のユーロブルンは16戦中15戦で予備予選落ちを喫した。写真は終盤5戦に出走したオスカー・ララウリ

 F1の格式を高く保つため新規参戦には意図的に敷居を高くしている現在のF1。それが良いか悪いかはともかく、今回は1989年に代表される予備予選について採り上げる。あまりに多くの参戦希望者が集まりすぎたため、運営上・安全上の理由から主催者は予選/決勝への参加者を事前に絞ったのだ。1989年は各GPで最大39台出走のうち、新規参戦チーム及び成績不振チームの13台が予備予選参加を義務付けられた。


 このうち上位4台が30台出走の本予選への参加を認められ、予選上位26人が決勝出走を許された。中嶋悟に続き日本人2人目のF1ドライバーとして、1988年の日本GPにラルースからスポットでデビューした鈴木亜久里。古くからのF1ファンであればご存じだろうが、彼は1989年にザクスピードから通年参戦したものの、16戦16回予備予選落ちの憂き目に遭った。毎グランプリで金曜日早朝出勤、金曜日午前退勤を強いられる厳しいシーズンだった。

1989年の鈴木亜久里(ザクスピード・ヤマハ)

 現代に比べると、当時のF1は牧歌的ではあったものの、いかに苛烈であったかがうかがえよう。1989年を例に挙げれば、金曜日朝の午前8時〜9時までが1時間の計時枠で予備予選組は足切りがなされ、本予選への参加が認められなかったチームスタッフやドライバーは速攻で撤収準備に取り掛かる必要性に迫られた。参加許可証(パス)を主催者からただちに召し上げられ、悲しいことにパドックから強制的に排除の対象となってしまったからだ。


 こうした参加台数増加を受けた事前の足切りが、F1の競技規則で明文化されたのかがいつからだったのかは判然としていない。ただし、名目上の予備予選が事前に実施された例はあった。複数の文献から明らかになっているのは、1970年イギリスGP(ブランズハッチ)。このときは前述の1989年とは異なり、主催者判断で複数のチーム/ドライバーが走行・計時機会さえ与えられないままサーキットから姿を消している。


 いずれもプライベーターだったり、旧型車両での参戦だったり、実績不足や小規模チームだったりといった背景もあって、主催者から参戦拒否に遭ってしまった。車両もそれを走らせる機材も、スタッフもドライバーも現場に到着していたのだが、彼らは公式の走行・計時機会をまったく与えられることなく、サーキットを後にしなくてはならなかった。


 ちなみに予備予選の実施可能性がF1の競技規則で明文化され、文書や記事で確認できるのは1981年。1982年にはよりはっきりと予備予選の導入が明文化され、実際に制度化されて実施された。しかし、1990年代に入るとF1の参戦台数が徐々に減り、1993年にはF1の競技規則から予備予選に関する条項は削除された。

1978年F1第5戦モナコGP 予備予選出走組のリカルド・パトレーゼ(アロウズ)が決勝6位に入った

 1970年イギリスGPにおける、主催者による一方的な予選参加拒否以外に、実際に走行・計時機会が与えられたF1史上初の予備予選の例も明示しておこう。それは1978年のモナコGP。そもそも狭いモンテカルロ市街地コース。1974年に28台の予選出走を許可した以降、1975年には26台の予選出走を許可しながらも決勝出走台数を18台に制限した。


 1976年以降は決勝出走台数を20台に増やしたが、1978年においては参戦申請台数が30台を超えた。そのため1978年は主催者判断で、実績不足のチーム/ドライバーに対して、予選出走資格を選抜する計時・走行機会を強いた。これが本当の意味でのF1における最初の予備予選である。


 1978年モナコGPは、30台の出走申請に対して主催者は8台に予備予選を実施、このうち上位2台が24台が出走を許された本予選へ進出。本予選ではさらに絞り込まれて20台が決勝へ進出というものだった。このとき、予備予選と本予選を通過したリカルド・パトレーゼとロルフ・ストレメン(ふたりともアロウズ)は決勝のスターティンググリッドにも並び、パトレーゼに至っては6位入賞という、設立1年目の新参チームに希望を抱かせる快挙を成し遂げた。


 1970〜1980年代のF1は規則が緩やかだったという事情はあるにせよ、当時は新規参戦チーム/新規参戦ドライバーを幅広く受け入れる土壌、幅広く受け入れる懐の深さがあった。あの頃が、なんでもかんでもかっちりと規則や政治に囲い込まれている現在のF1よりも魅力的だったと回想するのは、還暦をはるかに過ぎた老人ライターの単なる懐古趣味なのだろう。


(執筆:石井功次郎)

F2/F3000を経て1989年よりF1に参戦したオニクス。同年は予備予選組だったがステファン・ヨハンソンがポルトガルGPで3位表彰台を掴み、翌年は予備予選免除に


(Text:Kojiro Ishii)


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