最新記事
- 【F1豆知識】史上最も遅いタイトル決定は12月...
- 【F1チーム別技術レビュー:メルセデス】期待...
- 【2025年F1トップ10ドライバー】3位ルクレー...
- 【2025年F1トップ10ドライバー】4位ピアスト...
- 【2025年F1トップ10ドライバー】5位ラッセル...
- 精神的な弱点を克服したノリスとチャンピオン...
- 松田次生のF1目線:メンタルが鍵となった2025...
- 順位も報酬も鰻登り。新チャンピオンのボーナ...
- 【F1チーム別技術レビュー:フェラーリ】SF-2...
- タイトル獲得を実感するには「時間がかかる」...
- 【2025年F1トップ10ドライバー】6位サインツ...
- 【2025年F1ベスト・カラーリング・アンケート...
【F1豆知識】史上最も遅いタイトル決定は12月29日。年末&年始開催が実現した1960年代のグランプリ事情
2025年12月29日
2025年のF1世界選手権のドライバーズタイトル争いは最終戦までもつれ込み、ランド・ノリス(マクラーレン)がマックス・フェルスタッペン(レッドブル)の猛追劇を辛くもしのぎ、僅か2点差で逃げ切って初の戴冠となった。
最終戦しかも12月に入ってからの決着はいつ以来だろう? と首を傾げたファンは多いと思う。F1世界選手権70年以上の歴史を遡ると、最も遅いドライバーズタイトル決定は12月29日、もちろん最終戦という例に行きつく。それは1962年の南アフリカGP。その内容はノリス対フェルスタッペンの戦いよりも、ある意味で激しかったと言えるかもしれない。
それにしてもである。なぜ『メリークリスマス』はとうに過ぎ、『ハッピーニューイヤー』が目の前の時期、しかも、ヨーロッパからはるばる南アフリカまで行き、F1グランプリの公式戦が開催されたのか? という疑問は至極当然だろう。
それにはまず、南アフリカの歴史を軽く学ぶ必要があるかもしれない。南アフリカは中世になって初めて、アフリカ最南端の喜望峰周辺がインドやアジアヘ向かう海上交通の要衝として、ヨーロッパでは重視され始めた。ポルトガル人、オランダ人、ドイツ人、フランス人、イギリス人が寄港地・居留地として利用し始めて発展した。
19世紀に入るとイギリスが南アフリカ進出へ本格的に意欲を見せ、何度かの戦争を経て南アフリカを支配。肥沃な土地で果樹や穀物の大規模農業を推進し、19世紀後半には金やダイヤモンドやプラチナなど豊富な鉱物資源の発見があった。公用語を英語としたことも、イギリスの支配を決定づけた。当時の南アフリカは白人が政治の実権を握り、白人が経済を回し、一面的には裕福な国だった。
南半球という地理的な面もF1グランプリの年末年始開催を推進した。南アフリカの12月や1月は好天に恵まれた夏にあたる。さらにクリスマスから新年にかけての休暇期間開催は、多くの観客動員が望める。もちろん、観客の大半は現地の白人中産階級である。そしてイギリスに本拠を置くF1チームの場合、南アフリカへ船便で車両や機材を運ぶには3、4週間の余裕が必要だった。
つまり南アフリカの歴史的背景や経済的基盤に加えて、観客動員重視でF1グランプリを誘致したい地元主催者の思惑と、ロジスティック重視でF1グランプリへ参戦するチームの事情がうまくかみ合った結果、南アフリカでの年末年始開催は非常に合理的でありなんなく実現に至ったというわけである。

当時のF1世界選手権カレンダー事情を知る必要もあるかもしれない。1950〜60年代は年間10戦以下の開催が普通だった。ただし当時は年間10戦以下とはいえ、イベントの合間には非選手権がヨーロッパ各地で開催されていた。F1規格の車両も参加するレースは、それなりに頻度が高かったという事実も押さえておくべきだろう。
また、当時のF1世界選手権は“世界”という名称が付いていたものの、実際はヨーロッパ域内での開催に終始していた。たしかに50年代のF1世界選手権にはアメリカで開催されるインディ500も含まれていたが、実際のところマシンもドライバーもほぼ別物の特殊な単一イベントだった。
ヨーロッパ域内の開催に留まっていたF1世界選手権で初の純粋な“遠征”レースは、1958年1月19日にブエノスアイレス・オスカー・イ・フアン・ガルベス・オートドローモで決勝が実施された開幕戦アルゼンチンGP。F1世界選手権で初期の英雄(5回のF1王者)ファン・マヌエル・ファンジオにとっては、凱旋レースでありキャリアの末期を華々しく飾るイベントでもあった。
同じく1958年には初めてアフリカ大陸へF1世界選手権が渡り、最終戦としてモロッコGPがカサブランカのアイン・ディアブ・サーキットで実施されている。翌1959年には北米に進出、アメリカGPがフロリダ州のセブリング・インターナショナル・レースウェイで実施された。そして1960年、南アフリカGPは非選手権ながらも年末と年始に開催されたのである。
南アフリカにおける自動車事情、自動車レース事情も押さえておこう。1920年代に入るとフォードやフォルクスワーゲンなど、欧米の自動車メーカーが南アフリカで現地生産を始めた。当然のように南アフリカでも自動車レース文化が芽生え、1934年開業のプリンス・ジョージ・サーキットを手始めに、ロイ・ヘスケス・サーキット、ズワルトコップス・レースウェイやキャラミ・グランプリ・サーキットがこれに続いた。
1934年12月27日にはプリンス・ジョージ・サーキットで、南アフリカGPという名称の自動車レースが開催された。グランプリ規格以外のマシンも散見されるなか、欧州からの招待ドライバーとしてホイットニー・ストレイトが優勝、表彰台は逃したものの同じく欧州からの招待ドライバーとして、のちにメルセデスのワークスドライバーに抜擢されるリチャード・シーマンの姿もあった。

さて、いよいよ第二次世界大戦後に復活開催された1960年代の南アフリカGPに話を移そう。1960年の南アフリカGPはF1レースの非選手権とはいえ年頭と年末の2回が開催された。いずれもF1世界選手権で活躍するドライバー、スターリング・モスやルチアーノ・ビアンキ、ヨアキム・ボニエやジャック・ブラバムが参戦した。1961年にはジム・クラークも参戦して優勝していた。
こうして迎えた、F1世界選手権として初めて開催された1962年の最終戦南アフリカGP。選手権レースとして初めての南アフリカGPが、いきなりドライバーズチャンピオンシップのタイトル決定戦となったのは本稿冒頭で記したとおり。12月29日までタイトル決定を長引かせたのは、その後F1グランプリの歴史に名を残すふたりのドライバーだった。
いずれも2回、F1世界選手権ドライバーズチャンピオンを獲得することとなる、グラハム・ヒルとジム・クラークの1962年のタイトル争いは記事末の別表どおり。リタイア無しに優勝と上位入賞を積み重ねてきたヒルと、優勝かリタイアかで出入りの激しかったクラーク。第7戦イタリアGP終了時点のポイントを見ると、ヒルが37点でクラークが21点と大差がついていた。
ちなみに当時のポイントシステムは優勝9点、2位6点、3位4点、4位3点、5位2点、6位1点。また、ドライバーズチャンピオンシップ争いにおいては、ベスト5戦が有効ポイントとされていた。そのため、圧倒的にアドバンテージを得ている思われていたヒルも、実際のところ砂上の楼閣(ろうかく)だったというのは、“遠征”初戦の第8戦アメリカGPで明らかとなった。
アメリカGPでヒルは2位を獲得したものの、有効ポイント制度により実際のところ37点から39点までしか自身のポイントを伸ばせなかった。一方のクラークは優勝を飾って21点から30点まで自身のポイントを伸ばした。ヒルの39点、クラークの30点。これはつまり、南アフリカの最終戦でクラークが優勝を飾れば39点、ヒルは2位に入ってもポイントを上積みできず39点止まり。
そして同点の場合は上位入賞が多いドライバーに軍配が揚がるという競技規則により、ヒルが3勝でクラークが4勝という結果から、後者がドライバーズチャンピオンに輝くというわけである。まさに大逆転がありそうな雲行きだった。実際、予選ではクラークが2番手ヒルを0.3秒差で押さえてポールポジションを獲得していたのである。
決勝レースはポールシッターのクラークが首位を堅持して、初のドライバーズタイトルに向けて突進していた。しかし、レース終盤になりクラークのマシンはオイル漏れを起こしてリタイア。2番手につけていたヒルが優勝を飾り、彼にとって初のドライバーズタイトル獲得を決めた。
ヒルの祝賀会はイースト・ロンドン市内のホテルで開かれた。「あれはささやかなものだった。静かな満足感だけだった。(お酒は)一杯、いや二杯くらいは飲んだかな。まぁ、大した量ではなかった」とヒルは後年に語っている。あくまで内輪のパーティであり、参加したのはBRMのスタッフと、親しいドライバー数名。それでもヒルは、「これはBRMの勝利だ」と強調していたと伝えられている。
■1960年代のF1南アフリカGP
| 決勝日 | 格式 | 開催地 | 優勝者(車両) |
|---|---|---|---|
| 1960年1月1日 | 非選手権 | プリンス・ジョージ | ポール・フレール(クーパー・クライマックス) |
| 1960年12月27日 | 非選手権 | プリンス・ジョージ | スターリング・モス(ポルシェ) |
| 1961年12月26日 | 非選手権 | プリンス・ジョージ | ジム・クラーク(ロータス・クライマックス) |
| 1962年12月29日 | 選手権・最終戦 | プリンス・ジョージ | グラハム・ヒル(BRM) |
| 1963年12月28日 | 選手権・最終戦 | プリンス・ジョージ | ジム・クラーク(ロータス・クライマックス) |
| 1964年 | 未開催 | ー | ー |
| 1965年1月1日 | 選手権・開幕戦 | プリンス・ジョージ | ジム・クラーク(ロータス・クライマックス) |
| 1966年1月1日 | 非選手権 | プリンス・ジョージ | マイク・スペンス(ロータス・クライマックス) |
| 1967年1月2日 | 選手権・開幕戦 | キャラミ | ペドロ・ロドリゲス(クーパー・マセラッティ) |
| 1968年1月1日 | 選手権・開幕戦 | キャラミ | ジム・クラーク(ロータス・フォード) |
| 1969年3月1日 | 選手権・開幕戦 | キャラミ | ジャッキー・スチュワート(マトラ・フォード) |
■1962年のドライバーズチャンピオンシップ争い(上位2名)
| グランプリ | グラハム・ヒル | ジム・クラーク |
|---|---|---|
| 開幕戦オランダGP | 優勝 | 9位 |
| 第2戦モナコGP | 6位 | リタイア |
| 第3戦ベルギーGP | 2位 | 優勝 |
| 第4戦フランスGP | 9位 | リタイア |
| 第5戦イギリスGP | 4位 | 優勝 |
| 第6戦ドイツGP | 優勝 | 4位 |
| 第7戦イタリアGP | 優勝 | リタイア |
| 第8戦アメリカGP | 2位 | 優勝 |
| 最終戦南アフリカGP | 優勝 | リタイア |
(Text:Kojiro Ishii)
関連ニュース
| 12/5(金) | フリー走行1回目 | 結果 / レポート |
| フリー走行2回目 | 結果 / レポート | |
| 12/6(土) | フリー走行3回目 | 結果 / レポート |
| 予選 | 結果 / レポート | |
| 12/7(日) | 決勝 | 結果 / レポート |
| 1位 | ランド・ノリス | 423 |
| 2位 | マックス・フェルスタッペン | 421 |
| 3位 | オスカー・ピアストリ | 410 |
| 4位 | ジョージ・ラッセル | 319 |
| 5位 | シャルル・ルクレール | 242 |
| 6位 | ルイス・ハミルトン | 156 |
| 7位 | アンドレア・キミ・アントネッリ | 150 |
| 8位 | アレクサンダー・アルボン | 73 |
| 9位 | カルロス・サインツ | 64 |
| 10位 | フェルナンド・アロンソ | 56 |
| 1位 | マクラーレン・フォーミュラ1チーム | 833 |
| 2位 | メルセデス-AMG・ペトロナス・フォーミュラ1チーム | 469 |
| 3位 | オラクル・レッドブル・レーシング | 451 |
| 4位 | スクーデリア・フェラーリHP | 398 |
| 5位 | アトラシアン・ウイリアムズ・レーシング | 137 |
| 6位 | ビザ・キャッシュアップ・レーシングブルズF1チーム | 92 |
| 7位 | アストンマーティン・アラムコ・フォーミュラ1チーム | 89 |
| 8位 | マネーグラム・ハースF1チーム | 79 |
| 9位 | ステークF1チーム・キック・ザウバー | 70 |
| 10位 | BWTアルピーヌF1チーム | 22 |
| 第20戦 | メキシコシティGP | 10/26 |
| 第21戦 | サンパウロGP | 11/9 |
| 第22戦 | ラスベガスGP | 11/22 |
| 第23戦 | カタールGP | 11/30 |
| 第24戦 | アブダビGP | 12/7 |


