最新記事
- ブレンボ、F1やMotoGP、WRCなど2024年は69の...
- フェラーリ、サインツのために前例のない送別...
- メルセデスを離れるハミルトンがフェアウェル...
- 【F1第24戦無線レビュー(2)】チームに26年...
- FIA会長が新たな口撃。常任スチュワードを望...
- 【角田裕毅を海外F1ライターが斬る】ふたりの...
- フェルスタッペン、ルワンダで草の根レベルの...
- 【F1第24戦無線レビュー(1)】ピアストリが...
- 11番目のF1チーム、社名から正式にアンドレッ...
- キャデラックF1は経験あるドライバーとアメリ...
- 角田裕毅が明かすヨーロッパ生活。顔パスで「...
- 【動画】2024年FIA授賞式:26年ぶり王座のマ...
未来のF1王者ジェンソン・バトン、まだ何者でもなかった彼が輝いた瞬間。大躍進『BAR006・ホンダ』を語る
2024年6月12日
ジェンソン・バトンのF1デビューは2000年、彼が二十歳の時だ。それも名門ウイリアムズからのデビューとなれば世間が放っておくわけがない。BMWとジョイント1年目のウイリアムズには、1990年代にルノーと築いた黄金時代の頃のような強さはなかったが、それでもバトンはルーキーらしからぬスピードを何度か披露し、充分な見せ場は作ったと言っていい。
問題は2年目以降だった。アメリカのCARTに武者修行に出ていた子飼いのファン-パブロ・モントーヤ(1999年王座獲得)を呼び戻す決断をウイリアムズが下し、これによりシートを失ったバトンは、ベネトンへレンタル移籍となる。新たにチームメイトとなったジャンカルロ・フィジケラに対し、予選・決勝ともに後塵を拝すことが多く、その一方でモントーヤはデビューシーズンで勝利も飾るなど目覚ましい活躍。対照的に輝きを失ったバトンの存在はあっという間に忘れ去れていってしまった。
低迷する元チャンピオンチームのベネトンは、ルノーに対しチームを売却。ベネトン時代からチームの中枢を担うフラビオ・ブリアトーレの息がかかるフェルナンド・アロンソのレギュラー昇格を目論むチームの考えのもとでは、レンタルの立場だったバトンが弾かれるのは事実上決まっていたようなものだ。
しかし、見放す者がいればそれを拾う者がいるのも世の中の常。ウイリアムズ時代にバトンとともに仕事をした者たちの一部は、燻る才能を見捨てはしなかった。そのひとりがジェフ・ウイリスだ。彼はウイリアムズを離れ、BARへ移籍する際に、チームに対してバトン獲得を推奨。2003年、バトンはBAR入りを決めた。
その1年後の2004年に一躍時の人となるバトンだが、こう振り返ってもてもBARに辿り着くまでの彼のF1キャリア初期は、不遇な時間の連続だった。まだ何者でもなかったバトンは、BARとともにF1ドライバーとしての階段を確実に登っていった。
そんなBARは、のちに『ホンダ』と名を変え、後年バトンが念願のワールドチャンピオンとなった『ブラウンGP』の前身チーム。デビューからの数年間を無駄にした感は否めないが、彼は運命と呼べる場所に辿り着き、そして遠くない未来に頂点に立つことを考えれば、バトンのF1キャリアを語る際にブラックレーのチームは大きな意味を持つことは誰にでも理解できる。その最初の衝撃として刻まれた2004年こそ、バトンが初めてF1の住民たちからその存在を本当の意味で認められたシーズンである。
毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.48では、2004年シーズンにBARがコンストラクターズランキング2位獲得の原動力を生んだ006を特集。このページでは、現在発売中の最新刊『GP Car Story Vol.48 BAR006』に掲載されているジェンソン・バトンのインタビューを特別に公開。苦戦が続いたホンダF1第三期の中で一際輝いた2004年の衝撃から20年。バトンがあの時のBAR・ホンダの速さについて語る。
* * * * * * * * *
ベネトンで過ごした2001年シーズンの成績低迷により、ジェンソン・バトンに対する評価は急落した。そして、翌2002年にはまずまずの結果を残したにもかかわらず、「ウイリアムズでデビューした年(2000年)に見せた速さは、果たして本物だったのだろうか」という疑いは晴れなかった。しかし、2003年にBARに移籍したバトンはひとたびチームに溶け込むと、1997年のワールドチャンピオンのジャック・ビルヌーブをしのぐパフォーマンスを示し始め、彼の才能に懐疑的だった人々を沈黙させた。
2003年の終盤にビルヌーブがチームを去り、経験の浅い佐藤琢磨をチームメイトに迎えた2004年に、バトンはチームをコンストラクターズ選手権2位に導いた。これはチームの短い歴史において飛び抜けた好成績であり、優勝こそなかったものの、彼自身も10回も表彰台に上がっている。この素晴らしいシーズンが、バトンのキャリアの基礎を築いたのは間違いない。2004年に見せたスピードと一貫性は、彼にワールドチャンピオンの資質があることを証明するに足るものだったからだ。
■飛躍的な進歩の理由
──あなたが2003年にBARに加入してから2004年の開幕戦を迎えるまでの間に、チームは大きく変わっていたのでしょうか。
ジェンソン・バトン(JB)「その12カ月の間に、いくつか重要な変化があった。ご存知のように、BARはジャック(・ビルヌーブ)と彼のマネージャーを務めていたクレイグ・ポロックが1999年に立ち上げたチームで、最初の4年間はクレイグが運営にあたっていた。だがその後、オーナーのBAT(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・グループ)はこの体制では早期の成功は期待できないと見切りをつけ、クレイグを降ろしてデビッド・リチャーズをチームに迎え入れたんだ」
JB「レーシングチームの運営に関して、デビッドにはクレイグよりずっと豊富な経験があり、優れた実績もあったからね。彼が経営するプロドライブは、ラリーの世界で大成功を収めていて、勝てるチームを構築するノウハウや競争心の強い人々のグループのモチベーションを高める方法を知っていたし、政治的な駆け引きや取り引きの手腕にも長けていた。モーターレーシングの世界で25年以上も生きてきた人だったからね」
JB「クレイグがチームを離れた直後から、ジャックはBARがもう自分のチームではなくなったと感じていたと思う。そして、彼とデビッドの関係は、クレイグとの間に築いた親密さとは比べものにならなかった。クレイグはジャックの長年の親友で、マネージャーでもあったのだから当然のことだ。一方、僕はデビッドのような人と仕事ができることをうれしく思っていて、その意味でもチーム内の関係性に変化が起きていた。そして、翌2004年に琢磨と交代させられることを知ったジャックは、もうこのチームではレースをしたくないと心を決め、2003年の最終戦の鈴鹿には出場せずに去っていったんだ」
──2003年のマシン(BAR005)もそれなりにポイントを稼ぎましたが(26ポイント/コンストラクターズ5位)、表彰台には一度も手が届きませんでした。技術的な面において、2004年には何が改善されていたのでしょうか。
JB「まず言っておきたいのは、チームの体制が変わる前から、テクニカルチームの陣容は良かったということだ。以前から、とても優れたエンジニアが何人もいたところにテクニカルディレクターとしてジェフ・ウイリスが加わり、そのほかにも大勢のスタッフたちが舞台裏で働いてくれて、マシンを進歩させていた。そういった中で2004年に好成績を残すことができたのは、特定の領域に重点を置かず、総合的にマシンの改良に取り組んだからだと思う。ホンダ・エンジンは2003年よりずっと軽くなっていたし、さらに重要なこととして信頼性が向上していた。シャシーも軽量化されて重心高が下がり、ウエイトの位置で重量配分を調整できたからね。ドライバーとしても、前年型005との違いがはっきりと感じられた」
──そうした進歩をもたらした最大の要因は何だったのでしょう?
JB「F1チームとしての経験から来るものが大きかったと思う。BARは6シーズン目を迎えて相当な経験を積んでいたし、優秀な技術者も大勢加わっていた。ただ、2003年から2004年までに関しては、まだトップチームとの差があまりにも大きく、チャンピオンシップを争えるマシンを作るまでには至らなかったんだ。2004年にチームが達成した飛躍的な進歩は、そのギャップのかなりの部分を埋めるもので、ライバルチームの多くを驚かせた」
■アップデートを継続投入
──2003年は最終戦日本GPで好成績(バトンが4位、琢磨が6位)を挙げて、どうにかコンストラクターズ選手権5位に浮上してシーズンを終えました。これに対して、翌2004年は序盤戦から好調だった理由はどこにあったのでしょうか。
JB「あらゆることの積み重ねだと思う。どこかで大きな進歩があったわけではなく、コツコツと小さな進歩を続けていったからだ。テストカーの段階ですでに一定の改善が見られたし、006はそれよりもさらに良くなっていた。また、2003年との違いとして、シーズンを通じて多くの開発部品が投入されたことも大きな要因だった。優れたマシンで開幕戦を迎えられるのは良いことだが、そこから絶えず改良を続けていかないと、チャンピオンシップでの好成績はとうてい望めない」
JB「開幕当初の僕らのマシンは、あちこちに空力パーツを取り付けたライバルたちのものと比較すると、かなりシンプルな造りだった。けれども、どうすれば改善できるのかは分かっていたし、基本的な部分が正しいことを確かめてから、そういった空力パーツを投入していくことで、最終戦ブラジルGPまで競争力を維持できた。そうやってシーズンを通じて確実に進歩していき、マシンのポテンシャルを充分に引き出すことができたんだ」
──ドライバーとして、あるいはチームとして、ウインターテストでマシンの速さが確かめられた時点で、これならタイトルを争えると考えましたか。
JB「いいや、それはなかったね。2004年に限らず、僕は自分のキャリアを通じてシーズンが残り3分の1になるまでは、チャンピオンシップについて考えないようにしていた。個々のレースと短期的な目標だけを視野に入れて、毎回できるだけ上位に入ることを目指していたんだ」
JB「ただ、ブラウンGP時代の2009年だけは、これとは違ったアプローチを迫られた。僕らはシーズン序盤に、ライバルたちに対して大きなアドバンテージを築いた。だが、マシンの開発をする資金がないことは分かっていたから、かなり早い段階からポイントの状況を気にしていたし、コース上で争う相手も慎重に選んでいたんだ」
──当初、マシンはシンプルだったとのことですが、シーズン序盤から高い競争力を発揮しました。あなたは第2戦マレーシアGPと第3戦バーレーンGPでポディウムに上がった後、サンマリノGPではポールポジションからスタートして2位でフィニッシュしています。その頃には、自身のF1初優勝が2004年のうちに実現しそうだと考えていたのではありませんか。
JB「そうかもしれない。もうずいぶん前のことだから、はっきりとは覚えてはいないけどね(笑)。当時のフェラーリには、注文どおりにタイヤを作ってもらえる唯一のチームという、ものすごく大きなアドバンテージがあった。ブリヂストンのタイヤテストは、すべてミハエル・シューマッハーが受け持っていて、他のチームは彼のマシンとドライビングスタイルに合わせて開発されたタイヤを黙って使うしかなかったんだ」
JB「一方、ミシュランタイヤは予選でもレースでも文句なしの性能を発揮したが、ウイリアムズ、ルノー、トヨタ、マクラーレン、BAR、そしてジャガーといった多数のチームとともに開発をしていて、特定のマシンに合わせ込んだものではなかった。その点で、フェラーリとミハエルには明らかなアドバンテージがあり、彼らはそれを存分に活かした」
JB「ポールポジションからスタートしたイモラでも、僕は正直なところ勝てるとは思っていなかったが、ひとまずレース序盤をリードした。1周目の気分は最高だったよ。マシンをねじふせるようにドライブして、1周目のうちにある程度のギャップを作るという、思惑どおりの展開に持ち込めたからだ。そして、最初のスティントでのペースにも大満足だった。ところが、給油をして新しいタイヤに履き換えてからは、ミハエルのペースについていけなくなった」
JB「ご存知のように、レースでマシンをずっと完璧な状態に保つのは難しい。あの日は前日より風が強まり、予想よりもほんの少しだけ挙動に落ち着きがなくなっていた。結果として、マシンは少々乗りづらくはなっていたけれども、それでもなおペースはとても良かったんだ。ミハエル+フェラーリが、それよりさらに速かっただけでね」
──つまり、フェラーリのマシンが速すぎたと?
JB「そうだね。2004年のフェラーリは、明らかにベストマシンだった。6番グリッドや7番グリッドからスタートしても、レースで勝ってしまうんだからね。僕らに関して言えば、2004年のチーム全体のパフォーマンスも、自分のドライビングについても、心から誇りに思っている。開幕戦のオーストラリアGPから最終戦ブラジルGPまで、ずっと上位を争うことができたからね」
JB「とはいえ、唯一の心残りは、あの年に一度も優勝できなかったことだ。006はどこで勝ってもおかしくないマシンだったのにね。ただ残念なことに、ミシュラン勢の中で僕らが速かったレースではフェラーリとブリヂストンが一枚上手で、ミシュラン勢が有利だったレースでは、主にウイリアムズがその恩恵を受けるかたちになった。同様の理由で、マクラーレンとルノーもそれぞれ1勝ずつを挙げた。モナコGPでは、何とかして僕が勝ちたかったけどね。残り数周でヤルノ・トゥルーリ(ルノー)に追いついたのに、彼はまったくミスを犯さず、モナコは現在と同様にオーバーテイクが難しいコースだから、僕はまたしても2位に終わったんだ」
JB「アメリカGPも、本当なら僕らが勝つべきだった。レースでは一番速いマシンだったのに、僕はピットストップで小さなミスがあって、いくつかポジションを失った。そして、琢磨がイエローフラッグに関するレースディレクターの指示に正直に従っていた時に、フェラーリのふたりはそれを守らず、フルスピードで走ってピットに入った。それが響いて、琢磨はあのレースで勝てなかったんだ。フェラーリ勢より明らかに速かったにもかかわらずだ」
■オールラウンダーなマシン
──今、あらためて振り返ると、006の最大の長所はどこにあったのでしょうか。
JB「あのマシンはどんな種類のサーキットでも速い、オールラウンダーだったと思う。どこへ行っても競争力があり、パフォーマンスが一貫していて信頼性も高かった。2004年はフェラーリの戦闘力が頭ひとつ抜けている感じだったから、006は最速のマシンではなかった。けれども、それほど大きく離されていたわけではなく、数少ない例外的な状況ではそれを利用して彼らと戦うこともできた。ついでに言えば、ほぼ唯一の弱点はスタートにあった。琢磨と僕は、レースのスタートでポジションを下げることがかなり多くて、本当ならする必要のない苦労を強いられた」
──ホンダは2004年に前年型よりずっと軽く信頼性も高いうえに、パワフルなRA004Eエンジンを投入しました。ホンダの仕事ぶりに対するあなたの考えは、あのエンジンによって変わりましたか。
JB「いや、彼らにどれほどの能力があるのかは、以前からよく知っていた。1980年代から90年代にかけて、ホンダはほぼ10年間にわたってF1を支配していたからね。彼らがF1に、ただ参加するだけのような姿勢で復帰するはずがなかった。復帰後の最初の2〜3年は学習に費やしたものの、その後は確実に進歩して、2004年のエンジンはまさにトップクラスだった。実際、僕がエンジントラブルでレースを完走できなかったのは、ブラジルGPでの一度だけだ。他の2回のリタイアは、他車との接触とギヤボックスのトラブルが原因だった。ホンダは本当に素晴らしい仕事をしていたと思うよ」
──BARで充分に満足しているように見えながら、あなたは一時、2005年にウイリアムズへ移籍しようとしました。結局、BARに残留することになりましたが、いったい何が起きていたのでしょうか。
JB「それもはるか昔のことで、詳しいことはよく覚えていない。というか、思い出したくないのかもしれないな。とりあえず、当時の僕はあまり賢明ではなくて、いろいろと思い違いをしていたと言っておこうか」
JB「いずれにせよ、チームの誰かとの個人的な諍いのようなことは一切なかった。それは、デビッド(・リチャーズ)も含めてね。結局のところ、すべては最善のかたちで収まった。僕はホンダがチームを所有していた時期を通じ、さらにはブラウンGPの時代まで在籍し、彼らとともに2009年のドライバーズ&コンストラクターズの両タイトルを勝ち獲った。マクラーレンへ移籍したのは、その翌年のことだ。言ってみれば、そうしてきっちり始末をつけたわけだよ(笑)」
* * * * * * * * *
『GP Car Story Vol.48 BAR006』では、今回お届けしたバトンのインタビュー以外にも読みどころ満載。日本のファンの夢を一身に背負い戦った佐藤琢磨のインタビューはもちろん、006開発の中枢を担ったジェフ・ウイリス、ウイレム・トーエ、バトンをもっとも側で見ていた担当エンジニアのアンドリュー・ショブリン。そして、現ハースF1のチーム代表を務める小松礼雄が、駆け出しの若きエンジニア時代に見ていたBARチームの実情のほか、006の魅力的なスピードの生み出した圧倒的パワーを誇ったホンダV10エンジンの開発・運用に携わった田辺豊治、櫻原一雄、吉野誠の3人にも話を聞いている。
デビッド・リチャーズ、オットマー・サフナウアー、BAR、ホンダ両者の運営面を知るふたりの貴重なインタビューも掲載。2004年期の進撃、そして2005年以降の失速、その真相のすべてをこの1冊で知ることができるだろう。
『GP Car Story Vol.48 BAR006』は現在発売中。全国書店やインターネット通販サイトにて購入可能だ。内容の詳細は三栄オンラインサイト(https://shop.san-ei-corp.co.jp/magazine/detail.php?pid=13293)まで。
(autosport web)
関連ニュース
12/6(金) | フリー走行1回目 | 結果 / レポート |
フリー走行2回目 | 結果 / レポート | |
12/7(土) | フリー走行3回目 | 結果 / レポート |
予選 | 結果 / レポート | |
12/8(日) | 決勝 | 結果 / レポート |
1位 | マックス・フェルスタッペン | 437 |
2位 | ランド・ノリス | 374 |
3位 | シャルル・ルクレール | 356 |
4位 | オスカー・ピアストリ | 292 |
5位 | カルロス・サインツ | 290 |
6位 | ジョージ・ラッセル | 245 |
7位 | ルイス・ハミルトン | 223 |
8位 | セルジオ・ペレス | 152 |
9位 | フェルナンド・アロンソ | 70 |
10位 | ピエール・ガスリー | 42 |
1位 | マクラーレン・フォーミュラ1チーム | 666 |
2位 | スクーデリア・フェラーリ | 652 |
3位 | オラクル・レッドブル・レーシング | 589 |
4位 | メルセデス-AMG・ペトロナス・フォーミュラ1チーム | 468 |
5位 | アストンマーティン・アラムコ・フォーミュラ1チーム | 94 |
6位 | BWTアルピーヌF1チーム | 65 |
7位 | マネーグラム・ハースF1チーム | 58 |
8位 | ビザ・キャッシュアップRB F1チーム | 46 |
9位 | ウイリアムズ・レーシング | 17 |
10位 | ステークF1チーム・キック・ザウバー | 4 |
第19戦 | アメリカGP | 10/20 |
第20戦 | メキシコシティGP | 10/27 |
第21戦 | サンパウロGP | 11/3 |
第22戦 | ラスベガスGP | 11/23 |
第23戦 | カタールGP | 12/1 |