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F1名ドライバー列伝(2)ナイジェル・マンセル:判官びいきのファンの心を虜にした不運と良き敗者ぶり

2020年5月10日

 2020年はF1世界選手権にとって70周年にあたる。その歴史のなかで、33人のワールドチャンピオン、108人のグランプリウイナーが誕生、数々の偉大なるドライバーたちが興奮と感動をもたらしてきた。この企画では、英国ジャーナリストのChris Medlandが何人かの名ドライバーを紹介、彼らが強い印象を刻んだ瞬間を振り返る。


 今回紹介するのは、F1でタイトル1回、優勝31回、ポールポジション32回を獲得したナイジェル・マンセル。1980年にロータスからF1デビュー、1985年から1988年までウイリアムズで走り、1989年と1990年のフェラーリ時代を経て、1991年にウイリアムズに復帰し、1992年に39歳で念願のF1タイトルを獲得した。1993年にインディカーでチャンピオンになった後、1994年終盤に再びウイリアムズでF1に出場、1995年序盤2戦をマクラーレンで走った後にF1から引退した。


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 英国のファンの多くが、ナイジェル・マンセルはツキに恵まれないドライバーだったと考えている。その理由を理解するのは難しくない。マンセルは、最終的にF1で成功を収めたものの、そこまでの過程で多数の不運に見舞われたのだ。


 ジュニアフォーミュラでは何度か大クラッシュを経験し、頚椎や脊椎を骨折したこともあったが、当時はそれについて知る人間は少なかった。鎮痛剤を使いながらロータスでのF1テストで走り、強い印象を与えたマンセルは、テストドライバーの座をつかみ、1980年のデビューが決まった。


 ロータスでは4年にわたりフルシーズンを戦い、そのなかで表彰台は5回と、特別な速さを見せたわけではなく、チームメイトのエリオ・デ・アンジェリスよりも成績は一貫して劣っていた。ただ、印象的なシーンはいくつかあり、1984年アメリカGPのダラスで、マシンがストップした後、40度の暑さの中でマシンを押してフィニッシュを目指し、チェッカー前に力尽きたことは有名だ。


 そのレースで初ポールポジションを獲得したものの、初優勝はウイリアムズに移籍した後の1985年まで待たなければならなかった。アイルトン・セナにシートを譲る形でロータスを離脱したころのマンセルは、決して高い評価を受けていたわけではなかった。しかし1985年末までに、2位を1回、イギリスと南アフリカで2連勝を獲得し、翌年への期待が高まっていった。

1986年F1イギリスGPでのナイジェル・マンセル(ウイリアムズFW11)
1986年F1イギリスGPでのナイジェル・マンセル(ウイリアムズFW11)

 毎戦優勝を狙う力のあるマシンをついに手に入れた時、マンセルには十分な経験が備わっていた。何度か大きなクラッシュはあったものの、過去の困難な時期が彼をより一層強くし、その勇敢さを世界に示してきた。


 イギリスの人々には判官びいきの傾向が強く、1986年最終戦オーストラリアに起きた出来事が、マンセルの人気を決定的なものにした。このレースで、彼の母国イギリスのみならず、世界中の人々がマンセルを愛するようになったといっていいだろう。


 アデレイドでのレースを前に、マンセルはシーズン5勝を挙げて、チャンピオンシップをリードしていた。アラン・プロストとは6点差、チームメイトのネルソン・ピケとは7点差だった。1戦前よりも後方とのポイント差は小さくなっていたものの、それでもマンセルは圧倒的に有利な状況にあり、イギリスの人々は、マンセルがF1初タイトルを獲得し、10年前のジェームス・ハント以来のイギリス人チャンピオンが誕生することを期待していた。

1986年F1オーストラリアGP タイトルを争ったネルソン・ピケ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル
1986年F1オーストラリアGP タイトルを争ったネルソン・ピケ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル

 このころ、ウイリアムズは最速のマシンであり、マンセルは、2度のタイトル獲得者であるチームメイトのピケを相手に、素晴らしい走りを見せてきた。オーストラリアGP予選では、2番手ピケに0.3秒差をつけてポールポジションを獲得。3番手のアイルトン・セナを0.5秒、4番手プロストを1.2秒引き離し、圧倒的速さを発揮した。


 三つ巴の王座争いのなか、トップ3に入ればタイトルはマンセルのものになる計算だった。しかし大観衆が見守るなか、マンセルは決勝オープニングラップで4番手に後退する。それも、マンセルらしいといえば、マンセルらしい展開だった。彼が成功をつかもうとするときには、必ずいばらの道が待っているのだ。

■トラブルに栄光を阻まれながらも、世界中のファンを魅了

 プレッシャーはライバルたちにものしかかっていた。レースをリードしたピケはほどなくスピンを喫し、プロストのチームメイトであるケケ・ロズベルグがトップに立った。残り25周の時点で、ピケは2番手まで挽回、マンセルとプロストがその後ろに続いた。


 突然、ロズベルグは、右リヤタイヤのトラブルでリタイア。タイトルを争う3人がトップ3のポジションを争う展開になった。プロストが前に出て、マンセルは3番手だったが、そのままフィニッシュすれば、タイトルをつかむことができた。しかし、F1王座まであと18周という時に、180mphで走行中に、マンセルの左リヤタイヤがバーストした。


 マンセルは奇跡的に高速クラッシュを回避することができたが、ランオフエリアにマシンをとめなければならなかった。そしてその瞬間、タイトル獲得の可能性が遠のいたことを彼は悟った。


 ウイリアムズは予防的な措置で、ピケのタイヤを交換。ピケは残り周回数でプロストに追いつくことができなかったため、プロストが前年に続いてチャンピオンの座をつかむ結果となった。


 マンセルはレース後しばらく、ロザンヌ夫人とともにトレーラーに閉じこもった。しかし敗北してもその態度は潔いものだった。


「ロザンヌはひどく動揺している」とマンセルはイギリスのメディアに対して話した。
「立ち直るのに、少し時間が必要だ。これから家族と一緒に過ごし、久しぶりにいろいろな人に会ったりして、少しゆっくりするよ」


「アランは本当によかったね。でもネルソンは残念だった。フランク・ウイリアムズ(代表)とチームにとっても残念な結果だ。今日彼らは自分たちの責任を果たし、しっかりした判断に基づいた仕事をした」


 シーズンを通して力を発揮しながら、不運な結末を迎える。これこそがマンセルだった。そして彼はどれほど困難に見舞われようと、必ずや立ち直り、目標に再び立ち向かう。この日、失望に沈みながらも、立派な態度を見せたマンセルを見て、大勢のファンが、彼がチャンピオンにふさわしいドライバーであることを知ったのだった。


■1986年オーストラリアGP レースハイライト



(Text:Chris Medland)


レース

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