その後マクダウェルは1964年までスポーツカーやツーリングカーでレースを続行。彼が乗っていたジャガーMk2やフェラーリ250GTOは、1950年代にレーサーとしても活躍した裕福な自動車ディーラー経営者ジョン・クームスが所有するもので、クームスはジャッキー・スチュワートら有望な若手に自分のクルマをドライブする機会を与えており、ジャガーとの強いコネクションもあった。その縁で、のちにマクダウェルもクームスが経営するディーラー、クームス・オブ・ギルフォードの役員に迎えられている。
マクダウェルは1968年にジャガーEタイプで再びヒルクライムに出場。また「レースの虫」が騒ぎ始めるとシングルシーターに乗り換え、1969年にブーレイベイで国内選手権ラウンド初勝利を記録した。このとき乗っていたのはブラバム・クライマックスBT30Xだが、翌年から2年間はブラバムと3000ccのレプコV8エンジンの組み合わせで、さらに2勝を挙げている。次にドライブしたF2用ブラバムBT36に5000ccのレプコV8を積んだマシンが成功へのチケットになった。1972年シーズン終盤の勝利ではずみをつけて1973年、1974年のRACヒルクライム選手権を連覇し、特に74年はシーズン16勝という文句なしの強さを発揮した。
その後、マクダウェルはユニークなBMWの3000ccエンジンを積んだシェブロンB19や、ラリー・パーキンスが1975年ヨーロッパF3選手権タイトルを獲得したラルトRT1にブライアン・ハートのF2エンジンを搭載したマシンでヒルクライムを戦った。ちなみにハートとマクダウェルには、1172選手権の元チャンピオンで、1度だけF1世界選手権に出場(ハートは1967年ドイツGP参戦)という面白い共通点がある。のちに、このラルトはティレルのデザイナー、デレック・ガードナーの手によって改造され、3300ccのコスワースDFVを積むマシンに生まれ変わった。
マクダウェルは1979年の終わりにヒルクライムからの引退を決意。その後もBRDC(英国レーシングドライバーズクラブ)の活動に積極的に参加し、シルバーストンのヒストリック・フェスティバル基金の立ち上げに貢献した。また旧友のクームスが出資したギルフォードのガレージでヒストリック・レースカーの製作業務にも携わり、ヒストリックレーシングの舞台裏を支えた。
追記:現在のF1生涯最小周回数記録は、唯一の出場機会となった1993年イタリアGPを0周で終えたマルコ・アピチェラが持っている。
(Translation:Kenji Mizugaki/オートスポーツweb )