現代のモータースポーツ界において最も大きな影響を残した人物のひとり、キース・ダックワースが72歳でこの世を去った。
最初のコスワース・エンジンによって、F1の新境地を切り拓いたことで名高いダックワースだが、彼がモータースポーツ界に与えた影響はそれだけにはとどまらない。彼が同僚のエンジニア、マイク・コスティンと共に起こした会社、コスワースは、コース上だけでなくプライスリストの上でも競争力の高いレーシングエンジンの代名詞になっている。
ダックワースは、数多くの優秀な技術者を育てたロータス・カーズでトランスミッション・エンジニアの職を得て、モータースポーツ業界に足を刀Eみ入れた。それがロンドンのインペリアル・カレッジを卒業した彼の最初の就職先だった。コリン・チャップマンの活発なイマジネーションの導きの下で、1年間の‘見習い期間’を経たダックワースは、同じくロータスの従業員だったコスティンと組んでフォードのロードカー用エンジンに関連した仕事を始めた。かくして、コスワース社(2人の創立者の姓の一部を組み合わせて名付けられた)が産声を上げたのである。
当初は(そしてその後も)フォードのロードカー用エンジンの仕事が多かったコスワースだが、ダックワースの名を歴史に刻むことになったのは、やはり3リッターのF1用V8エンジンだった。このパワーユニットはデビュー戦で勝利を飾ると、それから20年以上にもわたってさまざまなバージョンで成功を収め続けた。
当時フォードはモータースポーツを通じて企業イメージの向上を望んでおり、同社のウォルター・ヘイズ(故人)が確保した10万ポンドの予算が、コスワースの設計するパワープラントに投資されることになった。ダックワースとコスティンはこの資金を使って2つのエンジンを開発しようとしていた。ひとつはF2用の1.6リッターユニット、そしてもうひとつがF1用のV8である。ダックワースはこの2つのエンジンの設計によって、後のヘイズの言葉を借りるならば、‘レーシングカーとエンジンを作らせたいときに訪れるべき国として(バカげた愛国心からではなく国際的な評価として)この国(イギリス)の地位を確立する’手助けをした。
2つのエンジンは、いずれも伝説的とも言えるステータスを得た。FVAはF2レースで見事な成功を収め、DFV(ダブル・フォア・バルブを意味する)はジム・クラークとロータスの手によってデビュー戦の1967年オランダGPで優勝を飾ったのだ。そしてその競争力が高いばかりでなく、販売価格も手頃だったために、DFVはブラバムやウイリアムズを始めとするイギリスの野心的な小規模チームがF1への足掛かりを得るための礎石になった。
このエンジンは度々改良を施されながら、1982年までレースで優勝を争い、ターボ時代の到来によって事実上の引退を余儀なくされるまでにF1で通算154勝を挙げた。そして徐々にF1では勝てなくなってきた時期にも、コスワースの名は別のカテゴリーで力強くレースをリードしていた。アメリカのインディカーシリーズでDFVをベースとするDFXが活躍し、またそのアイデアはフォードのラリープログラムで成功を収めたBDAエンジンにも応用されていたのだ。コスワース社はテクノロジーの開発だけでなく、多くの有能な人材も輩出した。イルモア・エンジニアリングを創立したマリオ・イリエンもそのひとりである。
ダックワースとコスティンは、その後、コスワース社をユナイテッド・エンジニアリング・インダストリーズ社に売却。会社は何度か所有者が変わった後、アウディおよびフォードの傘下に入ったが、ジャガー・レーシングのF1撤退と同時に再び売りに出され、一時は消滅の危機にも瀕した。しかし、幸いなことにチャンプカー・シリーズのオーナーであるケビン・カルコーベンとジェラルド・フォーサイスに買収され、現在ではチャンプカーシリーズのワンメイクエンジンとしてコスワースのユニットが使用されている。
近年のF1では、コスワースの名前は主に愛すべき弱小チーム、ミナルディのエンジンサプライヤーとして知られていた。だが、ダックワースがこの世を去る前に、2006年にウイリアムズとコスワースのパートナーシップが復活することを知らされたのは、おそらく彼にとっては嬉しいことだっただろう。