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ミカ・ハッキネンがチーム・ロータス時代の苦悩を語る「何も知らないことがかえって良かった」

2020年6月8日

 1992年、F1参戦2年目のミカ・ハッキネンはチーム・ロータスに残留。そんなロータスも再興プロジェクトを立ち上げ2年目のシーズン、ハッキネンとチームはともに目に見える結果を求めていた。しかし、新車『107』の開発は遅れ、ロータスは旧車で開幕を迎えなければならなかった。チームには優秀な人材が揃っていたとはいえ、潤沢とは言い難い財政面では、思うように開発もテストもままならない。そんななかでハッキネンの1992年は始まっていく。


 結論から言えば、1992年シーズンがなかったら、F1ドライバーとしてのハッキネンの未来は大きく異なっていた可能性も考えられる。記録上は表彰台も優勝もなかったが、23歳の若者は自らの才能を存分に示したのである。


 ロータスはこの2年後にはF1からの撤退を決める。名門にとってこの時代はまさに最終章であった。そんな名門の歴史のなかで107は間違いなくマイナーなクルマである。しかし、F1の歴史で見た場合、ひとりのチャンピオンの礎となった意味では、107が果たした役割は非常に大きいと言える。いまでもハッキネンは107に対して好意的だ。
 
 毎号1台のマシンを特集し、そのマシンが織り成す様々なエピソードを紹介する『GP Car Story』。最新刊Vol.32ではロータス107を特集。このページでは、F1ドライバーとして駆け出しだった時代を振り返っているミカ・ハッキネンのインタビューを全文公開する。107がなければその後の自分はいなかった。しかし、苦しさの連続であったこともまた事実。そんな若き日の苦悩を語る貴重なインタビューである。 
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──あなたが1991年にロータスに加わったとき、すでに資金不足は明らかだったのでしょうか。
ミカ・ハッキネン(以下、ハッキネン):F1チームは、いまもおなじ問題で苦労している。1991年のロータスの予算は、ビッグチームとは比べものにならないほどの規模だった。


 十分な資金がなければ、マシンに使うパーツもトップレベルのものは揃えられないし、設計をするスタッフだって大勢は雇えないから、開発部品もそれほど多くは作れない。ただ、予算に限りはあったものの、スタッフはみんな優秀な人たちだったと思う。単純に予算の問題でスタッフの人数が足りず、パーツを作る工作機械も最新鋭ではなかっただけだ。


──1991年の102Bはかなり古いマシンでしたね。
ハッキネン:最新型とは言えなかったけど、実際にはなかなか興味深いデザインのマシンだった。特に前後のサスペンションあたりはね。空力的にもすごくシンプルで良かったと思う。


──1992年には新車107が投入され、エンジンも新しくなりました。大きな期待とともに、シーズンの開幕を迎えたのでしょうか。
ハッキネン:マシンのパッケージ全体が変わっていた。誰もが知っているようにフォードHBはとてもいいエンジンで、信頼性が高く軽量で燃費が良かったし、要求する冷却系の容量もすごく小さかった。つまり、あのエンジンを使えるというだけで多くのアドバンテージがあったうえに、新しいシャシーは旧型よりもずいぶん軽くなっていたんだ。実際、車重という要素は、私たちのパフォーマンスの向上に大きく貢献していたと思う。それに加えて、空力も大幅に改善されていた。


 マシンの信頼性を高めるべく初期トラブルを解消していくためには、テストでそれなりの距離を走らせるしかない。だが、私たちはここでもおなじ問題に直面した。他チームは開幕戦を迎える前に3日間とか6日間テストをしていて、ビッグチームであれば15日間でも3週間でもテストができたが、ロータスには新車のテスト走行をする資金さえなかった。そして、ほとんど走らせていないマシンをいきなりレースに持ち込めば、どうしても現場でのトラブルが多くなり、その場しのぎの対策をせざるを得ない。結果として車重が増えていき、マシンは遅くなってしまうんだ。


──レイトンハウスから移籍したクリス・マーフィーのデザインですから、間接的にエイドリアン・ニューウェイの影響もあったと言えそうですね。
ハッキネン:クリスがいいアイデアを持ち込んだのは間違いない。とても優れたデザインのマシンで、初めて実物を見たときには本当にワクワクしたし、すごくクールだと思ったよ。

ミカ・ハッキネン(チーム・ロータス)
ミカ・ハッキネン(チーム・ロータス)

■ギヤボックスの差

──チームメイトのジョニー・ハーバートは第5戦サンマリノGPで107に乗りましたが、あなたはその翌戦モナコGPまで待たされました。
ハッキネン:あのチームにとって新車を走らせるのは大仕事だった。だから、チームメイトのジョニーか私か、どちらかが一足先に乗るというかたちで導入するしかなかったんだ。実際に新車を見て速そうだと思ったし、早く乗りたくて仕方がなかったよ。


 コース上でのパフォーマンスもすごく良かったので大満足だった。私の記憶が正しければ、あのマシンのフロントサスペンションは、ダンパーとスプリングが1本しかないモノショックタイプだった。個人的には、あれはちょっといただけなかったね。特にバンプや路面のうねりが多いモナコGPには、ああいう左右の前輪が独立して動かないタイプのサスペンションは不向きだから、ひどく乗りづらくてコントロールが難しかったんだ。


 でも、チームにはショックアブソーバーの調整を専門にしているイタリア人がいて、彼がいい仕事をしてくれたので、信頼性の確立にはそれほど時間はかからなかった。ただ、あのマシンはリヤの車高変化に敏感で、いつも極端に車高を下げて走る必要があり、それに関連した問題をいくつか抱えていた。

チーム・ロータス時代のジョニー・ハーバートとミカ・ハッキネン
チーム・ロータス時代のジョニー・ハーバートとミカ・ハッキネン


──それでも新しいマシンに乗ってからは、度々ポイント圏内に入れるようになりましたね。
ハッキネン:間違いなく言えるのは、あのマシンにはポテンシャルがあったということだ。だが、いくつかのファクターが、本来のパフォーマンスの発揮を妨げていたんだ。そのひとつがギヤボックスだった。私はマニュアルギヤボックスのせいで大きくタイムを失っていると、ずっとチームに訴えていた。言うまでもなく、ほかのチームのドライバーたちはステアリングホイールのパドルでギヤシフトをしていて、両手をいつもステアリングに置いておくことができた。その違いは大きかったね。エンジンのパワーに関してもライバルマシンに比べるととやや劣っていて、そこでもタイムを失っていた。


 もうひとつの問題はステアリングの重さだ。あれには本当に難儀したよ。特に、高速コーナーではステアリングがものすごく重くなって、まともにステアできなかったほどだ。けれども、ジオメトリーを見直すには時間と資金が必要で、パワーステアリングの搭載なんて、重量と予算の両面でチームにとっては論外だった。でも、ドライバーに関して言えば、“彼”はいつもパーフェクトで素晴らしい仕事をしていたよ(笑)。


──つまり107を走らせるのは、身体的にタフな仕事だったということですか。
ハッキネン:ああ、本当にキツかった。体のトレーニングやエクササイズは熱心にやっていたけど、それでも全然足りなかった。マニュアルギヤボックス、パワーステアリングなし、それなりにダウンフォースがあってタイヤが太くグリップが高いとなると、体を慣らすにはとにかくドライブするしかない。だから、頻繁にテストをしているドライバーたちと体力面でおなじレベルを維持するのはなかなか難しかった。そういう意味でも厳しかったね。


──107でのベストレースをひとつ挙げてください。
ハッキネン:ハンガリーGPだと思う。確かベネトンのマーティン・ブランドルと順位を争い、最後はあと一歩でポディウムに上がれるところだった(結果は4位)。終盤に3番手のゲルハルト・ベルガーのマシンがトラブルに見舞われて、私は全力で彼を追っていた。そして最終ラップに入り、残すはあとコーナー3つというところで、ベルガーを抜こうと試みてスピンしてしまったんだ。私にとっては忘れられないレースだよ。1992年がいいシーズンだったのは間違いない。マクラーレンの首脳陣が私に目をつけ、「こいつを雇うべきだ!」と思ったのも、あの年だったわけだから。


──そう考えると、107はあなたのキャリアにとって重要なマシンと言えそうですね。
ハッキネン:そのとおり。いい仕事をしてくれたよ。すごくカッコいいマシンで、先ほども言ったように車重がとても軽かった。チームの予算やスタッフの人数を考えれば、あれだけ何度も上位に入ったのは、本当に素晴らしい成績だったと思う。もし、私たちがビッグスポンサーを獲得してもっとお金を使えるようになり、それに応じたマーケティングプランを展開していたら、ロータスは上昇気流に乗っていただろう。


 けれども、それまでずっと無理を重ねてきたチームの人たちは、もう本来の力を発揮できなくなっていた。昼も夜もノンストップでハードワークを続けていたから、精神的にも肉体的にも限界を迎え、F1への情熱だけでは立ち行かなくなっていたんだ。スポンサーがつくまで何とか耐え忍ぼうと、みんなが仕事を続けていたけど、結局そんなスポンサーは現れなかった。チームの首脳陣も必死で動いていた。パートナーを探すために世界中を飛び回っていたんだ。どうしてうまくいかなかったのかは、私には分からないけどね。

■意思疎通の障害

──テクニカルコンサルタントのジョン・マイルズのことを覚えていますか。
ハッキネン:彼とはよく白熱した議論をしたよ(笑)。ジョンはサスペンションとそれによるマシンの動き、そしてショックアブソーバーのことばかり考えていた。とてもいいヤツだったけど、仕事の面では話がうまく通じないこともあった。レーシングカーを走らせたことがない人には、実際にドライバーがコースで何を感じているかを正確に理解するのは難しいことが多い。それに、当時はまだデータ収集装置のレベルもそこまで高くはなかった。


 だけど、決定的だったのは、やはりコミュニケーションの問題だ。ジョンはとても科学的な考え方をする人で、ドライバーはしばしば彼の言っていることが理解できなかった。ジョンが提供する情報、伝えようとすることはどれも専門書に書かれているような話で、例えば「サスペンションはこのように機能する。バンプをヒットしたとき、サスペンションはこう働くはずだ」といった感じなんだ。でも、こっちは時速240キロで走っていて、しかも当時のマシンはサスペンションがあまり動かず、むしろタイヤの変形のほうが大きいくらいだったから、なかなか話が噛み合わなかった。


──テクニカルディレクターのピーター・ライトについてはどうですか。
ハッキネン:マクラーレンにいた時期を振り返ってみると、私はもうある程度の年齢に達していて、エンジニアやメカニックたちも多くは同年代だった。まあ、少し年上の人もいたけど、年の差はわずかでしかなかったんだ。だけど、ロータスにいた頃は、まわりの人たちがみんな自分よりずっと年上だった。


 彼は私と対等な立場で話をせず、まるで素人を相手に話すような態度を取った。「君はまだ知らないだろうが、私たちには分かっているんだ」と言わんばかりでね。それが、私には大きな問題だった。いわゆる言葉の壁のせいで、コミュニケーションがうまくいかないこともあったよ。でも概して言えば、意思疎通の障害になったのは年齢の違いだった。


──あなたは1993年にマクラーレンへ移籍しましたが、そのままロータスにとどまるという可能性はあったのでしょうか。
ハッキネン:論理的に考えれば、答えは明らかだった。私は自分の才能を信じていたし、自分にどれほどの能力があるかも分かっていた。それなのに、ライバルたちが予選で私より1秒も2秒も速いというのは、受け入れがたいことだった。それは真の実力の反映ではなく、私にはもっと速いマシンと、もっと良いチームが必要だったんだ。


 もちろん、チームへの忠義を守るのは大事なことだけど、チームにはドライバーやスタッフに対して、はっきりとした見通しを示す義務がある。例えば、向こう3年間についてはこんなプログラムを組み、スポンサーからこれだけの金額を集め、どこのエンジンを手に入れ、あるいは空力の専門家を招き入れて成績の向上を目指す、といったようなことだ。


 だが、当時のロータスには私を納得させてくれるような、そうした明確なプランがなかったんだ。実際のところ、ロータスのように全然テストできないチームがものすごいペースでテストをするビッグチームと戦うのは不可能で、どう考えても彼らに追いつく手立てはなかった。


──ロータスで過ごした2年間はあなたにとって、どんな時期だったのでしょうか。
ハッキネン:とてもいい時間を過ごすことができた。それは間違いないよ。当然のことながら、最初はとにかくうれしいことばかりだし、F1チームに加わるのは初めてでほかのチームについては何も知らないから、比較のしようもなかった。だけど、そんなふうに何も知らないのが、かえって良かったのかもしれない。ひどい状況でも意気消沈せずに、トップチームにいるようなつもりでドライブし続けることができたからね。

1992年オーストラリアGP ミカ・ハッキネン(チーム・ロータス)
1992年オーストラリアGP ミカ・ハッキネン(チーム・ロータス)

1992年のF1日本グランプリでロータス107を操り鈴鹿のS字区間に飛び込んでいくミカ・ハッキネン(チーム・ロータス)
1992年のF1日本グランプリでロータス107を操り鈴鹿のS字区間に飛び込んでいくミカ・ハッキネン(チーム・ロータス)

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『GP Car Story Vol.32 Lotus 107』では。今回お届けしたミカ・ハッキネンへのインタビューのほか、107を最も長くドライブし、誰よりもこのクルマを知るジョニー・ハーバート、アクティブサスを開発したテクニカルディレクターのピーター・ライト、107のデザイナーであるクリス・マーフィー、いまも現役で活躍し、当時はエンジニアとしてチームに所属していたジョック・クレアへのインタビューも掲載。チーム再興プロジェクトの面からは、チーム代表であったピーター・コリンズが、いかにチームを立て直していく過程が難しかったかを語っている。


 名門チームの最終章を飾るマシンとなってしまうが、これを駆ったふたりのドライバーはその後GPウイナーとして歴史を残すことになる。その意味では107には存在する意味があったといえるだろう。GP Car Story Vol.32は全国書店やインターネット通販サイトで発売中。内容の詳細と購入は三栄のオンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11417)まで。

GP Car Story Vol.32 Lotus 107
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(Text:Adam Cooper
Translation:Kenji Mizugaki)




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