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ネルソン・ピケが1988年『ロータス100T』を語る。最強のホンダエンジンを積みながらも低迷したワケ

2023年10月11日

 今季のF1世界選手権は、レッドブルがシーズンを席巻。マックス・フェルスタッペンが無敵の強さで選手権3連覇を成し遂げた。特に開幕からの14連勝は、それまで記録だった1988年マクラーレン・ホンダの11連勝を更新する記録樹立で注目を集めた。ともにホンダエンジンでライバルを圧倒したレッドブルとマクラーレン、実は今季と88年シーズンは意外なほどよく似ている。


 今季も88年もホンダは2チームにエンジンを供給。今季はレッドブルとアルファタウリ、88年はマクラーレンとロータスだった。酷似した状況というのは、一方がシーズンを圧倒的な強さで制覇したのに対し、もう一方はまったく同じエンジンを使いながら、中団グループに沈んでしまっていることだ。


 88年のロータスは、前年のディフェンディングチャンピオンであるネルソン・ピケが加入し、F1挑戦2年目の中嶋悟とコンビを組んだ。ロータスは、前年にアイルトン・セナによって2勝を挙げており、当時のF1界のパワーバランスではトップチームの一角を担う存在だった。チャンピオンチームを離れたピケにとっても、信頼するホンダの息のかかるチームとして、ひとつも勝てなくなる状況など想像もしていなかっただろう。しかし、現実はそのピケをしても3位表彰台が精一杯だった。 


 毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンを織り成す様々なエピソードを紹介する『GP Car Story』。最新刊のVol.45では、最強マクラーレン・ホンダの影に隠れてしまったロータス100Tを特集する。


 このページでは、現在発売中の最新刊『GP Car Story Vol.45 ロータス100T』に掲載されるネルソン・ピケのインタビューを特別に公開。F1チャンピオンが直面した苦悩を赤裸々に語る。


 今回ピケへの取材を試みる際、相談したライター陣からはこぞって「ピケが話をするとは思えない」という反応が返ってきた。成績を残せたクルマならまだしも、ピケにとって最悪のシーズンだった88年について語るとは到底思えない」というのだ。それでもダメ元でアタックの結果、ピケはインタビューを承諾。現役時代のクレバーな彼のイメージそのままに、100Tをしっかり分析してくれた貴重なインタビューをお届けする。


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 ロータス100Tは、セナが1987年にモナコGPとデトロイトGPを制したときのマシンであるロータス99Tの後継機に当たる。99Tは、F1で初めてアクティブサスペンションを標準搭載したモデルとしても有名だ。翌年、セナのマクラーレン移籍が決まっていたため、ロータスはその後釜に3度のワールドチャンピオンに輝いたネルソン・ピケを指名する。契約期間は2年で、チームに残留した中嶋悟がそのパートナーを務めることになった。


 100Tは、外見こそ旧型にそっくりだったものの、パッシブ方式のサスペンションに戻すという大きな変更を受けていた。重量軽減がその理由であったとされている。同年から過給圧は2.5バール、燃料搭載量も150リットルに制限され、大幅パワーダウンを余儀なくされたエンジンにとって、単体で25?にもなるアクティブサスは過重な負担と判断されたのだ。


 あれから35年の歳月を経た今、ピケも当時の決断を肯定できるという。


「私はアクティブサスの信奉者のひとりだったんだ。ウイリアムズでその威力をまざまざと実感していたからさ。しかし、ロータスのマシンはまるで別物で、アクティブサスを諦めたのは正解だったと思う。システム的にすごく複雑で、しかも重かったからだ。馬力があそこまで削減されてしまうと、1?の重さが大きな問題となる。だからロータスはどんな犠牲を払ってでも、車両重量を規定ギリギリに収めたかったんだ」


「それはうまくいったけど、バランスが一向に決まらなかった。アクティブサスを諦め、空力的な方向を目指そうというのがエンジニアの思惑さ。というのも、スプリングとダンパーで動作するシステムの方が、やはりサスペンションの可動域を大きく取れるからなんだね。それもあってロータスは、ビルシュタインとの提携でより快適かつ軽量なシステムの開発に平行して取り組んでおり、シーズン後半には投入の予定だった」

新導入のロータス100Tはサスペンション方式をパッシブ方式に戻すことに
新導入のロータス100Tはサスペンション方式をパッシブ方式に戻すことに


 100Tをデザインしたのはジェラール・ドゥカルージュとマーティン・オジルビー。ホンダの1.5リッターターボV6エンジンを搭載するのは、同年マクラーレンと同じ体制である。ただし、マクラーレン・ホンダは88年に全16戦中15勝を挙げ、セナが自身初のワールドチャンピオンに輝いたのに対し、ロータスの試みはまったくの期待外れに終わっている。


 獲得ポイント23点、コンストラクターズ4位という成績は、3度の表彰台フィニッシュを果たしたピケがほとんどひとりで稼ぎ出したもの。ちなみに、ロータスが未勝利のままシーズンを終えるのは、81年以来となる。これにはピケも落胆を隠せなかったという。


「開幕2戦で3位に入ったものの、マクラーレンと比べるとその差は歴然。彼らはシャシーが良くて、空力が良くて、サスペンションもいい。予選アタックをするのも、私はとんでもない時間をセットアップに費やさねばならなかった。それからレースの準備に取りかかるのだが、いつも時間が足りなくて、深刻なアンダーステアに悩まされたものだ。ブラジルGPでは、レースで3セットもタイヤを使ったりしたしね」
 今年71歳になるピケは、当時を振り返りはしても、特定のレースをあげつらうことはあえてしたくない様子だ。


「成績だけで考えるとこの年は、私の長いキャリアのなかでも最悪のシーズンのひとつと言える。私自身、1勝もできないというのは、80年以降では初めてのことだった。最初の2レースで表彰台に上がり、最終戦もそうだったので、何となく格好がついた。ホンダがラスト2戦で馬力を上乗せしてくれたおかげさ。思い返しても個人的には、会心のレースというのはひとつもなかったと感じている。ハッキリ言って、全部ダメだったってことだ」

第2戦サンマリノの表彰台(左から)ネルソン・ピケ、アイルトン・セナ、アランプロストがならび、ホンダが独占する形となった
第2戦サンマリノの表彰台(左から)ネルソン・ピケ、アイルトン・セナ、アランプロストがならび、ホンダが独占する形となった

■ロータスへの移籍理由

 それにしても、ピケはそもそもなぜロータスと契約する気になったのだろうか。質問への回答は、いたって率直なものだった。


「ロータスへの移籍を決めた理由はふたつある。ウイリアムズは私とナイジェル(マンセル)のコンビ続行を希望していたが、エース級のドライバーが同じチームで張り合ってもいいことはひとつもない、というのが私の信念なんだ。お互いにポイントを奪い合うわけだからね。その最悪の見本が86年。物の見事に、漁夫の利をさらわれてしまっただろう」


「しかも、私がブラバムで経験したまったく同じことをウイリアムズでも味わう羽目になった。当時の相方はリカルド(パトレーゼ)だが、彼はBMWのエンジン開発に手を貸そうなんて気はこれっぽちもなくて、すべてを私がやっていた。それを見てバーニー(エクレストン)は、リカルドにコスワースV8エンジンを搭載したマシンを与えた。ところが、彼は私がBMWエンジンでカナダGPを制したのを見て、やはり自分もターボカーに乗りたいと勝手なことを言い出したんだ」


「ウイリアムズに話を戻すと、私は86年にディファレンシャルのテストで散々苦労して、翌87年はアクティブサスにかかり切りだった。ナイジェルは、その手のモノははなから信じていないという態度。ところが私が勝った途端、自分にあてがわれた装備が劣っていると文句を言い出した。苦労したのは私なのに彼が良い思いをする、いつものパターンだ」


「とことん懲りた私は、今後は明確にナンバーワンを謳った契約しか受けない、と心に誓ったのさ。ほかにも、ロータスの提示したギャラが格段に良かったというのもあるけどね。年間750万ドル(約9億6000万円)というオファーは、ウイリアムズが前年に払ってくれた額の3倍だったんだよ」

チームでのナンバーワンにこだわってロータスへの移籍を決めたネルソン・ピケ
チームでのナンバーワンにこだわってロータスへの移籍を決めたネルソン・ピケ


 グランプリ通算23勝を誇るピケにとって、F1わずか2年目の中嶋悟が深刻な脅威となろうはずもない。それどころか前年にセナの相方を務め、日本人初のポイントゲッターとなった中嶋とピケの関係は、思いのほか良好だったという。


「サトルとは、とてもうまくいっていたよ。とても物静かな人物という印象を受けた。ただ、経験不足はやはりどうしようもなかったね。セナは、自分のデータやフィードバックを彼と分かち合うことを拒んだらしいじゃないか。一方、私は別に構わんよというスタンス。だから打ち合わせとかでも、サトルに聞かれたことは何でも正直に包み隠さず答えていた。私の方が速いことは分かっていたからね。ナイジェルが相手だと、それはさすがにできないし、したくもない。ただ、彼は英語があまり得意じゃなくて、私にしろエンジニアにしろ、話が通じていないと感じることがあった」


 88年末にはホンダのエンジン供給がなくなると分かっていて、そこでチームはサトルの後釜を探し始めた。一度は(ジョニー)ハーバートで決まったが、F3000のクラッシュで大怪我を負ってダメになり、次に候補に挙がったミケーレ(アルボレート)は結局、ティレルを選んだ。それでサトルに、もう1年やってもらおうということになったのさ。彼に付いていたエプソンの支援も、多少は効いたんじゃないかな」

チームメイトはF1参戦2年目の中嶋悟だった
チームメイトはF1参戦2年目の中嶋悟だった

■初テストで問題続出

 ロータスとピケにまつわる物語は、早い段階から不吉の様相を見せ始めていた。100Tの最初のテストをポールリカールで実施したときの様子を、ピケは今も鮮明に記憶しているという。


「まずはどんなマシンか知りたくて、ドゥカルージュに半日くれと頼んだんだ。何であれ、自分がやりたいようにやってみたいとね。彼が了承してくれたので、手持ちのスプリングで一番ソフトなのを装着して走ったんだ。いったん戻って、今度は一番硬いのに換えて走り出す。もちろん比較するためだが、驚いたことに何ひとつ変わらない。乗り味がまったく同じなんだ」


「続いて、ロールバーでもダンパーでも、キャンバーを変えたときですら同じことが起きた。ドゥカルージュにはこう説明したよ。こういう症状は、シャシー剛性が不足しているときの典型だとね。スプリングに負荷がかかる前に、シャシーが撓んでしまう。コーナーの入口でひどいアンダーステアが出ていたのも、そのせいなんだ」

ロータス100Tをデザインしたジェラール・ドゥカルージュ(左)
ロータス100Tをデザインしたジェラール・ドゥカルージュ(左)


 マシンが新しくなり、さらにテストを続けても、その症状はまったく変わることはなかった。


「いろいろやってみたけど、解消できなかったね。ボディの真ん中の部分が、特に捻れる。ちょうど、シャシーとエンジンの間あたりだ。若干傾け気味にマウントしていたことも影響していたのかもしれない。後に新しくモノコックを作り直して、それで少しはマシになったが完璧にはほど遠い。シャシーとエンジンのつなぎ目の部分は、依然としてヤワなままだったのさ」


 マシンを良くすることに貪欲かつ厳格なピケにとって、シャシーの剛性不足は徒労以外の何ものでもなかった。


「100Tの最大の弱点は剛性不足。それはシャシーだけでなくサスペンションにも当てはまり、減速時にものすごく不安定になったり、コーナーで負荷がかかったときにバランスが変化するという症状になって現れていたんだ。どんな開発も意味をなさなくなるという問題だ。それは当然で、マシンにボルトで固定されたコンポーネントはどれも、土台となるプラットフォームが堅固という前提条件で機能を発揮するよう作られているからだ」


「例えばスプリングは、ボディ本体に衝撃が伝わらないようにするためのもので、その役目はバネが硬かろうが軟らかだろうが変わらない。ブラバム時代に私が学んだことさ。ある物がどれだけ硬いか知りたければ、硬い物の上に置いて調べなきゃダメ。ゴードン(マーレイ)は、いつもそういう言い方をしていたよ」


「この視点で物事を見れば、パッケージのどこが問題かを見分けるのは、そう難しいことじゃない。私がウイリアムズに移籍したとき、パトリック(ヘッド)に真っ先に指摘したことで、彼はその意見を取り入れてくれた。88年のロータスで何が不満だったかというと、今説明したような“基本原則”に基づいたマシン作りがなされていなかった、ということなんだ。私なりにベストと思えるバランスを見つけ出した後でさえ、チームは足踏み状態を続けていた。本来ならば、ファインチューニングはそこから始まる。その段階でマシンが何をやっても反応しないとしたら、もうできることはほとんどないんだ」

シャシーの剛性不足により、サスペンションのチューニングを進めることができずチームは足踏み状態に
シャシーの剛性不足により、サスペンションのチューニングを進めることができずチームは足踏み状態に


 そのためか100Tは、シーズン中にアップデートが施されることがほとんどなかった。いくら変えようとしても変わらなかったというのが、より実情に近いのかもしれない。具体的にはビルシュタインのダンパーを一新、モノコックの剛性を上げ、ホイールベースを長くするなどの変更が行なわれているのだが、どれもめぼしい効果は得られなかった。


「ビルシュタインのサスペンションシステムがきて、ドライバー的には少し楽になったかな。シーズン半ばに導入されたもので、3種類の異なるセッティングをコクピット内のスイッチで選べるようになっていた。それでセットアップ行程を省略できるというわけだ」

■深刻なダウンフォース不足

 100Tは、空力的にも様々な問題を抱えていた。エンジニアが風洞の実験データにミスリードされるという不手際が起き、コムテックが管理するその風洞が実はマーチの所有と分かり、要らぬ憶測を生んだものである。「100Tに革命的なところなど、少しもなかった」とピケは言う。


「エンジニアはコスト最優先でやっていたはずだ。ドゥカルージュは空力をどうにかしたかった。前年モデルが横幅も高さもあって、空気抵抗が大きすぎるのが難点。900馬力がいきなり650馬力まで減らされたから、いかにトップスピードを維持するかに重点が置かれたのも無理はないよ」


「100Tは、直線ではトップレベルの速さを誇っていたが、残念ながらダウンフォースが決定的に不足していた。マクラーレンのコーナリングスピードは、まさに別次元だったね。これに少しでも近づきたければ、ウイングを立てるしかない。すると直線スピードが、10?/hから20?/hもダウンしてしまうんだ。こっちはウイングでダウンフォースを稼ぐしかないのに、マクラーレンやフェラーリは、フロア部分でものすごく稼いでいる感じだった」

コーナリングスピードが弱点だったロータス100T。同じエンジンを搭載するマクラーレンMP4/4とは大きな差が開いてしまった
コーナリングスピードが弱点だったロータス100T。同じエンジンを搭載するマクラーレンMP4/4とは大きな差が開いてしまった


 トータルパッケージのなかで十全に機能を果たしているコンポーネントがひとつあるとしたら、それはホンダエンジンということになろう。この日本企業と共に働くのは、「いつだって楽しかった」とピケは語っている。


「当時最強のエンジンで、それも群を抜いていた。だからこそ、もっと良い成績を残せなかったのが情けなくてさ」と嘆息するピケ。このシーズン最大のトピックスは、燃料制限が一段と厳しくなったことで、ホンダはその影響をモロに受ける立場にあった。


「ロータスの燃費は決して褒められたものではなかった。シーズン前半は特にそうで、空気抵抗が大きかったせいだ。マクラーレンと比べたら、そりゃひどいものだった。ところがしばらくして、もうひとつ別の問題が持ち上がった。BMWで経験済みだったので、すぐにピンときたよ。レース後にインタークーラーを見るとタイヤカスがびっしり、ということがよくあった。つまり、エンジンに行く空気がそれだけ熱くなっているということだ。当然、パワーは失われる。ところが、皮肉にも燃費は俄然良くなるんだ」


「あれこれテストした結果、吸気温度が75度のときにそれほどパワーダウンせず、燃費もほぼベストに近いと分かった。今回は搭載燃料が一気に150リットルに減らされているから、厳しいなんてもんじゃない。BMWでこういうことがあったとホンダに教えてあげたら、最初は半信半疑だったけど、エンジンが壊れる不安の方が勝ったようだ。結局やってみて、彼らもそのとおりだと納得したのさ」

圧倒的な速さを披露していたマクラーレンと同じホンダエンジンを搭載していたが成績は低迷「もっと良い成績を残せなかったのが情けなくてさ」とピケも嘆息した
圧倒的な速さを披露していたマクラーレンと同じホンダエンジンを搭載していたが成績は低迷「もっと良い成績を残せなかったのが情けなくてさ」とピケも嘆息した


 そのホンダから提携解消を告げられたロータスは、翌89年シーズンに向けて替わりのエンジンを手当しなければならなくなる。ピケが語ってくれたのは、当時ほとんど知られることのなかったストーリーだ。


「数年前にTAGがポルシェと組んでマクラーレンのためにやった、それと同じ手法をキャメルはロータスで使いたいと考えていたらしい。そこでポルシェを訪ね、翌シーズン向けに自然吸気エンジンを開発した場合、どれくらい費用がかかるか尋ねたんだ。しかし、思っていたより高額でキャメルは断念、ジャッドエンジンでいくしかなくなったというわけさ」


 成績は散々なものだったが、ピケ自身は総じてロータスに悪い印象は持っていないようだ。


「トップチームがすべてそうであるように、ロータスも優秀なプロが大勢集まっていてレベルの高い仕事をしていた。私は、そんなスタッフと良好な関係を築くことができたと考えている。唯一そうはならなかったのがドゥカルージュで、私には評判倒れの人物としか感じられなかった」


「経験豊富で、いいマシンをもっと良くする術は心得ている。しかし、イチから新しく作るだけの技術的な知識を持っていたとは思えない。そもそもデザインする能力がないし、計算ができなかった。彼はコンセプトを決めるだけで、それ以外の作業はすべて他のエンジニアがやっていた。だから、問題が発生したときの解決能力なんて、最初から期待するのが無理なんだよ。


 果たして、その決断は凶と出る。ホンダが抜けた穴はあまりにも大きく、翌シーズンのロータスはますます深刻なスランプに陥ってしまうことになるのだ。獲得ポイントわずか15点、コンストラクターズ6位でBグループ転落という結果は単なる序章にすぎず、ロータスがその後一気に崩壊へと向かうのは、後の歴史が伝えるところである。


 惨状に業を煮やしたピケは、90年にベネトンのシートを獲得することに成功。これが彼のF1キャリアを締めくくる受け皿となり、さらに3勝を上乗せして、翌91年末にヘルメットを置いたのだった。


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『GP Car Story Vol.45 ロータス100T』では、今回お届けしたピケのインタビュー以外にも見どころは満載。このクルマを語る上で日本のF1としては絶対に外せない中嶋悟氏の存在。今回は川井一仁氏との対談でまだお互いに初々しさが残っていた時代を思い出しながら語り合っていただきました。


 もちろん、最強ホンダV6ターボを開発されたホンダOBへも取材を敢行。設計を担当された河本通郎氏の他、ホンダとしての大成功の裏でロータス担当として当時悔しさも感じられた田口英治氏、西澤一俊氏御三方による座談会、ホンダを代表する立場として後藤治氏のインタビューからも、当時のホンダ、ロータス、そしてマクラーレンの関係が見えてきます。


 ロータス側からは車体デザインを代表して、ともにGPカー初登場のティム・フィースト、ジーン・ヴァルニエ、レースエンジニアのスティーブ・ハラムとティム・デンシャム、チームマネージャーだったルパート・マンウォリングなど関係者のインタビューを多数掲載。


 当時の関係者のなかにもここまで酷い結果に終わると思っていた人は少なく、また今回話を聞いた技術者たちからは必ずと言っていいほどあるひとりのドライバーの名が出てきます。そのドライバーが数周でもいいから100Tをドライブしてくれていたら、状況は全然違う方向へ行っていたのではないかと……そのあたりも実際に読んでいただき、機会が主の競技であっても『F1』は人の存在が多くに影響する人間ドラマであることを感じてもらえたらと思います。



(Text/Michael Schmidt
Translation/Yutaka Mita)




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