【】新連載「FACES」第1回:ジュール・ビアンキ

8月4日

「僕の祖父マウロと、大叔父にあたるルシアン・ビアンキは、60年代の偉大なドライバーだったから、僕にとってビアンキ家を“引き継ぐ”というのはある意味、特別なことだった。うちにはコンペティションの精神があふれていたから」

 古き良き時代のドライバーらしく、兄ルシアンも弟マウロも、スプリントから耐久レース、サーキットレースからラリーまで、さまざまなカテゴリーで活躍した。しかし1968年のル・マン24時間ではフォードGT40を駆るルシアンが勝利を飾る一方で、マウロのアルピーヌA220がゴールまで4時間のところでクラッシュして炎に包まれた。大やけどを負いながらも九死に一生を得たマウロは翌年もレースを続けるが、1969年3月末、ル・マン24時間に向けたテストでルシアンのアルファロメオ33にトラブルが発生。ルシアンは帰らぬ人となり、アルピーヌでテストに参加していたマウロは、その場で引退を決意した。

 サラブレッドの家系が背負った重い運命を、ジュールが口にすることはなかった。ただ「パパはカートコースを所有していても、一度たりともレーシングドライバーではなかったよ」とだけ言った。ビアンキ家が再びレーシングドライバーを生み出すまで、ふたつの世代が必要だったのだ。

 大叔父ルシアンは、わずか17回のグランプリ出場において1968年のモナコGPで3位という経験を持つが、ジュールは恵まれた二世ドライバーでも三世ドライバーでもなかった。フェラーリ・ドライバー・アカデミーの設立と同時に抜擢され、2012年にはフォース・インディアのリザーブドライバーを務めても、資金的に大きなバックアップを得ていたわけではなかった。2013年シーズンの開幕前、フォース・インディアがエイドリアン・スーティルを選択した直後、小さなマルシャ・チームにビアンキのシートを確保したのは、フェラーリ、FFSA(フランス・モータースポーツ連盟)、マネージャーのニコラス・トッドの連携による資金だった。

 2013年シーズン開幕前のオフを「キャリアのなかで、いちばん困難な時期だった」とビアンキは言った。

「冬の間ずっとポジティブな返答を待ちながらも先のことがわからなくて、最終的にはエイドリアンが選ばれて……ショックは受けなかったけれど、とてもがっかりした。でも、そういうことなんだと。僕は“すべてが終わったわけじゃない”と自分に言い聞かせ、あきらめないでトレーニングを続けていた。その後、フェラーリやFFSAのおかげで比較的早くマルシャ決定のニュースが届いて、そこからは頭を切り替えることができた」