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元F1王者ジャッキー・スチュワートが語るチーム運営「SF3のあの勝利は私への贈り物」

2021年12月8日

 2021年F1世界選手権は、ドライバーズタイトルを争うふたりのドライバーが同点で最終戦を迎えるほどの熱い戦いが繰り広げられている。2005年からF1参戦を続けるレッドブルにとっては、5回目のタイトルを懸けた戦いだ。


 今年で17年目のシーズンを戦うレッドブル、その全身チームであるジャガー時代をリアルタイムで見ていない人も、それだけの時間が流れたわけだからファンの中にはだいぶ多くなったのではないかと思う。さらに言えば、この系譜にはさらに前身が存在する。それが今回の主役のスチュワート・グランプリだ。


 F1の複雑な構造のひとつに「チーム=コンストラクター」という定義がある。F1に参戦するチームは自前でクルマを作りレースに出ることを意味するのだが、歴史的観点から見た場合に非常にまどろこしい状況を生む場合がある。それを説明していると膨大な文字数を消費してしまうので、ここでは割愛するが、記録を統轄するコンストラクターの定義の前ではスチュワート、ジャガー、レッドブルは別物であるが、実際に活動する組織としては“同一線上”と解釈できるわけだ。


 スチュワートGPの創設者ジャッキー・スチュワートは、3度F1を制した元ワールドチャンピオン。“タイトル獲得5カ年計画”を掲げ、フォードをバックにつけ1997年よりF1活動を開始する。3年目で成し遂げた初優勝は今も語種。同じ90年代に産声をあげたジョーダン、ザウバーとて、ここまで短時間に成功を収めることはできなかった。しかし、ジャッキーは勢いに乗るチームをパートナーのフォードに売却し、わずか3年で活動を終えてしまう。彼には彼なりの考えがあっての行動だった。その想いをインタビューでは語ってくれている。


 毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.38では、今季F1で大活躍のレッドブル・ホンダ、その始祖にあたるスチュワート・グランプリが大成功を収めたラストマシン『SF3』を特集する。


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 1年目の1997年を振り返ると、今でも誇らしい気持ちになる。息子のポールと私とで新しいファクトリーをイチから立ち上げた。設備や工作機械にそんなに金を掛けられないし、そういうことも含めて最初の年は大変だった。


 私たちが注ぎ込んだ時間は膨大、あれほど苦労した時期は後にも先にもない。当時、私はスイスに住んでいたが、英国政府から特別に許可をもらいイギリスに戻り暮らすことにした。もちろん家はそのままにしたが、精神的にも肉体的にもタフだった記憶がある。


 現役時代だって大変だった、年間60〜65戦に出場していたから当然さ。当時のF1は今みたく大金は稼げない。だから、F2、ツーリングカー、GTカー、インディカーと依頼があればどこへでも喜んで駆けつけた。


 引退後もなぜかF1との縁は切れず、ABCやワイド・ワールド・オブ・スポーツなど、テレビの仕事は随分やったな。グッドイヤーやフォードなどとも関係を保っていた。それでもスチュワートGPを立ち上げた時が人生でもっともキツい時期だったのは確かだね。

■ロン・デニスの心遣い

 1997年車の発表会はそれはすごかった。あそこまで華々しい顔見世をやったチームはそうはないはず。大半はフォードのウォルター・ヘイズが仕組んだことで、彼は企業広報の世界では知られた存在だ。私が出会った中でも最高の腕利きのひとりさ。


 開幕戦ではポールと私のプライドをくすぐる出来事があってね。ピットレーンの末席とはいえ、我々には晴れの初陣。その端っこのガレージに、なんとロン・デニスがわざわざ挨拶に来てくれたんだ。マクラーレンは最上席だからかなりの距離になる。ふらりとやってきて子細ありげに見回していたが、私と目が合うとコクリと頷いて一言、「立派なもんだ」。


 ポール・スチュワート・レーシングで下位カテゴリーの実績はあるものの、F1ではポッと出の新参にすぎない。そんな我々のところにトップチームの代表がはるばる足を運び激励してくれた。誇らしい気分にもなろうってものさ。無論、ポールも同じ気持ちだったよ。


 モナコでのルーベンス(・バリチェロ)の2位は、まさにうれしい驚きだった。私も含めスタッフの誰ひとり予想していなかったことだからね。ミハエル(・シューマッハー)が1コーナーでオーバーランして、それでもエンジンを止めなかったのは彼らしいしぶとさだ。あれさえなければ我々が勝っていたかもしれない。私は最初からルーベンスは一流だと思っていたが、それが証明されたレースだった。


 モナコで私は何度も勝っている。でも、あのときほどスリルを感じたことはない。F3で1勝、F1では3勝、それは自分でも誇らしく思っているが、チームオーナーとして味わう喜びは、ドライバーの時とはまた別物。実は表彰式直後、列席していたモナコ皇室の方々からお召しを受けた。私とポールがすぐさま出向き、挨拶をさせていただいたが、あれも本当に誇らしく名誉な出来事だったね。


 1997年シーズンの後半はややジリ貧となったが、新参チームにありがちなことかもしれない。しかし我々は、初年度をどうにか黒字で終えられた。実は参戦していたいずれの年も赤字は一度もなく、これはプライベーターとしてはかなり希有だと思う。

スチュワート・グランプリは1997年から99年までの3年間のみF1を戦った
スチュワート・グランプリは1997年から99年までの3年間のみF1を戦った

■人に恵まれた

 今あらためて思うのは、ウチにはそれだけいい人材が揃っていたことだ。それがすべてなわけだよ。クルマを設計、製作、そして広報活動から旅行の手配その他、F1チームを支えるすべての任務について同じことが当てはまる。


 アラン・ジェンキンスはものすごく独創的だった。一度出向のようなかたちでアメリカズカップの助っ人へ行ってもらったが、先方のリクエストが振るっていた。型にはまらない発想ができるデザイナーを貸してほしいとね。まさにピッタリだろ。一方のゲイリー・アンダーソンは、地に足の付いた堅実なアプローチが持ち味。もちろん腕は超一流。


 管理部門の面々もこれに負けず劣らず優秀だった。運営やコマーシャル関連の人材に恵まれたおかげで、私もスポンサーの交渉や打ち合わせをスムーズにこなせた。短時間でこれほどの成果を挙げたチームは他にないんじゃないか、あったら教えてほしいものだ。


 私たちがひとつもミスを犯さなかった、と言ってるわけじゃない。1998年のカーボン製のギヤボックスは、やってはいけないことをやってしまった典型だ。あるとき、空港でたまたま顔を合わせたミハエルから、「ギヤボックスにカーボンを使うなんてどうかしてる」と言われたことが忘れられない。当時の技術レベルからして彼の意見がたぶん正しいが、私はアイデア自体は間違っておらず、資金を投入し最後までやり遂げれば必ずアドバンテージになると信じていたんだ。


 有力チームは我々の2〜3倍の予算で戦っており、ただでさえ厳しいのにああいうミスを犯せば勝負は目に見えている。というわけで2年目の我々は、強豪との力の差にきりきり舞いさせられた。あの頃は意識しなかったが、後にフォードに身売りする理由のひとつにこの一件があったことは間違いない。巷に言うところの“寄らば大樹の陰”を、心のどこかで納得していたわけだ。


 とはいえ我々は新参チームとしてはスポンサーに恵まれていた。中でもHSBCは最高のスポンサーで、サーキットで大々的にコマーシャルキャンペーンを打ったり、それは力が入っていた。言っておくが、彼らを引き入れたのは私だからね。他にもマレーシア政府、テキサコ、ブリヂストンといった世界を股に掛ける多国籍企が積極的に関わってくれた。新興チームがあそこまでの支援を受けた例は、おそらく他にはないはずだ。


 フォードが我々のためにエンジンを生産してくれたことも忘れてはいけない。我々はその当時ですでに40年ほどの付き合いだった。極めて緊密で、そこで知り合った人たちとはいまだに交流が続いている。これも私が誇りに思うことのひとつだ。ヘイズのほか、ヘンリー・フォード2世やエドセル・フォードとも親しくさせてもらっている。


 それにしても彼らの事業に比べたら、我々のやっていることはまるで“ミッキー・マウス”さ。取るに足らないお遊びで、そこに投じる金額だってはした金。我々のチームは一度も赤字にならなかったと言ったね。それはつまり、損をしなかったという意味で、決して大儲けしたわけじゃないし、もとよりそのつもりで始めたことでもない。少しでも利益が出れば、それで新しい機械を購入するとか、すべて設備投資に回していたんだ。


 チームとして苦難の時を過ごしたことは何度もあるが、幸いにして財政難だけはなかった。2年、3年とやっていく間に、とりあえず受け入れてもらってはいるけれども、それはいわばカッコ付きの容認なのだということに気づいた。この先もずっとエントリーが保証されているわけではない、ということさ。


 バーニー・エクレストンとマックス・モズレーは、シーズンを全うするだけの資金が我々にあるとは考えておらず、我々の参戦を一種のジョークととらえていたんだ。それにしちゃ随分活躍したもんだろ? 当時を思い返すと今でも腹が立つ。それくらい見下されていたんだ。


「資金を出してくれる会社があるなら、会長でも社長でも一筆書いてもらって持ってこい」とまで言われた。そうすればウチの財政がどこまで保つか分かるって寸法だ。私が知る限りそこまで要求されたチームは過去にはない。我々のバックに付いていたHSBCは、当時世界最大とも言われた銀行で、そのCEOともあろう者が、たかがF1風情に念書をしたためねばならなかったんだ。フォードにしてもそれは同じ。いったい自分を何様だと思っているんだか。

ルーベンス・バリチェロとジャッキー・スチュワート
ルーベンス・バリチェロとジャッキー・スチュワート

スチュワート・グランプリのSF3を駆るジョニー・ハーバード
スチュワート・グランプリのSF3を駆るジョニー・ハーバード

■バリチェロの涙

 ついでに言わせてもらうが、我々の最終年となった1999年は、競争力だってかなりのものだった。ニュルブルクリンクを制した、それが何よりの証拠。今にも雨が降り出しそうな空模様を気にしながら、身悶えするように見守ったラスト20周が今でも忘れられない。ゲイリーと私とで、雨雲がやってくる方角のピットレーンの端までわざわざ歩いていって確かめたくらいなんだから。


 あの勝利は私への贈り物だ。ついでに言えば奇跡でも何でもない。私たちが成し遂げたことを誇りと共に受け入れる。ポールと私は、絶対に勝てるはずがないと思われていた中で、正々堂々と勝利をもぎ取ったんだよ。


 ルーベンスにとっては残念なレースになってしまったね。ジョニー(・ハーバート)と並んで表彰台に立ってくれたので私は言うことなしだが、ついに勝たせてやれなかった。それを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 翌年からのフェラーリ移籍は、シーズン序盤には分かっていたことで、これもまた私の誇りのひとつ。彼が我々のチームに愛着を持ってくれたのもうれしかった。こんなことをバラしてもたぶん彼なら許してくれると思うが、フェラーリ行きが決まったと報告に来た時、彼は私の前で涙を流したんだよ。私はルーベンスからたくさんのものをもらったが、もっともうれしかったのがこのときの涙なんだ。


 イモラで九死に一生の大クラッシュに見舞われ、その苦しい時期を乗り越えてスチュワートへやってきた。チームへの貢献は推して知るべし。その彼がいなくなるのは残念だし大きな損失だが、スクーデリアから誘われたとなれば、彼の将来のためにも祝福してあげねばと思った。ミハエルのチームメイトになることがいささか気懸かりだったがね。ルーベンスのあの速さがあれば、つねにとはいかなくてもミハエルを凌駕しても不思議ではない。現にそういうことがしばしば起きて、その度に自重を求められたそうじゃないか。

■今のF1は別次元

 さてと、1999年シーズンを限りにフォードに身売りした、その理由を知りたいのだったね。チームを立ち上げた当初から、私には不安があった。「マクラーレンにまともに立ち向かえるのか」、「一度でもフェラーリを負かせられるのか」、という不安だ。とにかく真剣に考えた。


 今のメルセデスを見てどう思う? 総勢1200名のスタッフを抱え、ドライバーはまるでバレエのプリマドンナのようだ。私たちが経営していたのでは、決してあのようなやり方はできない。いったいいくら掛かっているのか知らないが、私が目にしたこともない大金なのは確かだよ。


 つい最近もマクラーレンとレッドブルを訪ねる機会があった。ウチの元スタッフがいて実は驚いたんだけどね。ともあれ、設備やら機材を眺めて、私はただ首を振るしかなかった。F1チームを運営するコストは、今や私の想像をはるかに超えている。小規模チームなどはもはや存在しない、私たちは紛れもないその小規模チームだったんだ。


 ジャガーに衣替えしてからは、私はチーム経営にはろくに関与していない。役員に名を連ねているといっても、実際に物事を決断しチームを動かしているのはチェアマンだけだから、お飾りみたいなものさ。


 ジャガーは結局のところ、レッドブルに買い取られるまで1勝も挙げられなかったね。彼らをくさすつもりはさらさらないが、つまるところフォードはアメリカ企業で、それがイギリスの会社を買収したところが問題だったのじゃないかね。だってホラ、F1はどう考えたって英国産業なわけだから。

スチュワート・グランプリのSF3をドライブするルーベンス・バリチェロ
スチュワート・グランプリのSF3をドライブするルーベンス・バリチェロ

1994年F1第14戦ヨーロッパGPでワン・スリー・フィニッシュを飾り、祝杯をあげるスチュワート・グランプリのメンバーたち
1994年F1第14戦ヨーロッパGPでワン・スリー・フィニッシュを飾り、祝杯をあげるスチュワート・グランプリのメンバーたち


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きっとジャッキーは、今季のレッドブル・ホンダの活躍を心から喜んでいるはずだ……。


『GP Car Story Vol.38 Stewart SF3』では、今回お届けしたジャッキー・スチュワートのインタビュー以外にも見どころ満載。SF3の生みの親アラン・ジェンキンス、育ての親ゲイリー・アンダーソンや、ルーベンス・バリチェロ&ジョニー・ハーバートのドライバー両名の他、ジャッキーの息子で共同経営者であったポールのインタビューはもちろんのこと、あまりメディアではフォーカスされることのない日本のメディア初出のエンジニア、メカニックのインタビューはどれも読み応えあり。


 とくに編集部からの推薦は、当時その存在があまり知られていなかった日本人空力エンジニア田中俊雄氏の独占インタビュー。どれほど重要なポストでSF3の開発に従事したのかが分かる貴重なインタビューは必読! なぜ、SF3は成功できたのか、ぜひ読み取っていただきたい。


『GP Car Story Vol.38 Stewart SF3』は、12月8日発売。全国書店やインターネット通販サイトにてお買い求めください。内容の詳細と購入は三栄オンラインサイト(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12137)まで。

『GP CAR STORY Vol.38 Stewart SF3』
『GP CAR STORY Vol.38 Stewart SF3』の内容確認と購入はこちら



(Text:GP Car Story
Photo:SAN-EI)




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