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マクラーレンの秘蔵っ子ハミルトン。キャリアを紡いだ人の縁【F1ドライバーの履歴書】

2026年4月4日

 世界最高峰の4輪レースであるF1でレギュラードライバーの座を掴んだ人物は、下位カテゴリーからライバルを圧倒してきた名手ばかり。そこで、F1に到達するまでに彼らがどれほど活躍し、いかにして周囲のライバルとの違いを見せつけてきたのかを改めて確認するべく、2026年F1に参戦する22名がF1ドライバーになる前、ステップアップカテゴリーで残してきた結果やエピソードを『F1ドライバーの履歴書』と題した不定期連載でお届けする。


 第2回目に登場するのは、2007年にF1デビューを飾った現在41歳のルイス・ハミルトンだ。


 1985年1月7日、イギリス・ロンドン中心部から約50km北に進んだハートフォードシャー州スティーブニッジで誕生したハミルトン。彼の少年期といえばマクラーレンF1チームを率いるロン・デニスとの邂逅が最も知られたエピソードだろう。ただそれ以前に、ある人物との出会いが彼のキャリアを大きく変化させていた。

 ハミルトンのレーシングカート初公式戦は1993年、当時8歳だった。地元からそう遠くないライ・ハウス・カートレースウェイで行われた初めての公式戦で、ハミルトンはカデットクラス3位という成績を残した。その走りに、スーパーカート世界選手権で250ccクラス3連覇という偉業を成し遂げ、シャシーメーカー『ジップ・カート』を立ち上げたマーティン・ハインズが惹かれた。


 デイビッド・クルサードをはじめとしたイギリス人ドライバーを若手時代に発掘してきたハインズは、ハミルトンと父アンソニーにその場で声をかけた。そして、ハミルトンは次のレースからハインズが率い、イギリス・カート史に名を刻む名門となるジップ・ヤングガンズ・レーシング・チームのドライバーとして戦うチャンスを得たのだった。


 ジップ・ヤングガンズという最高の環境を手にしたハミルトンは、その期待に応える走りを見せる。1995年、10歳でイギリス最高峰カートシリーズのスーパー1選手権のIAMEカデットクラスでチャンピオンに輝き、英オートスポーツが主催する年間表彰式に出席。そこで、デニスと初めて邂逅したのだった。

ロン・デニス(マクラーレン・チーム代表)、ノルベルト・ハウグ(メルセデスのモータースポーツ部門責任者)

「10歳のころ、初めてロン(・デニス)に会った時のことを鮮明に覚えている。ロンに『いつかあなたのチームで走りたい』と言ったんだ」と、ハミルトンはその当時のことを振り返る。デニスはその際「9年後に連絡するんだ」と言い、ハミルトンの差し出した手帳に自身の電話番号を書き記した。


 10歳の子供相手に格好良く振る舞ったデニスだったが、それから3年後、その子供に自分からコンタクトをとるハメになる。ハミルトンが1996年、1997年とイギリスのカート選手権で連続チャンピオンに輝いたからだ。


 ハミルトンが13歳となった1998年、マクラーレンはメルセデスと共同で若手ドライバー育成プログラムを立ち上げ、ハミルトンはその育成プログラムの一員に加わった。プロジェクトの目玉はマクラーレンが立ち上げたF3000チーム『ウエスト・コンペティション』から国際F3000選手権に参戦するニック・ハイドフェルド、ニコラ・ミナシアンのふたりだった。ただ、彼らがマクラーレンF1チームのレギュラードライバーになることはなかった。

 マクラーレンとメルセデスというより強力なバックボーンを得たハミルトンは、15歳となった2000年にCIK-FIAカート世界選手権FAクラス、そしてCIK-FIAカート欧州選手権FAクラスでタイトルを獲得。レーシングカートで確固たる実績を残した。16歳となる2001年までカートを主戦場とし、翌年の四輪レース本格参戦を前に、2001年11月に開催されたイギリス・フォーミュラ・ルノー・ウインターシリーズに参戦。寒い11月の観客もまばらなロッキンガム・スピードウェイが、ハミルトンの四輪レースデビューの地だった。


 開催期間は2001年11月中、全2大会4レースのみというウインターシリーズは、翌年のイギリス・フォーミュラ・ルノーへの準備の意味合いが大きいシリーズだった。ハミルトンはマノー・モータースポーツ(のちにヴァージンF1〜マノーF1の母体となった)からエントリーし、四輪初レースとなった第1戦ロッキンガムは15位。なお、16位で続いたのは日本から参戦していた下田隼成だった。


 ハミルトンは第2戦ロッキンガムで4位に入るも、結局このウインターシリーズでは1度も表彰台に立つことはなく、選手権を7位で終えた。なお、ハミルトンと同ポイントで選手権7位タイに並んだのは、のちにDTMドイツツーリングカー選手権で活躍する2歳年上のジェイミー・グリーンだった。グリーンは、ミドルフォーミュラ期のハミルトンにとって強力なライバルとなる。

 2002年、ハミルトンはイギリス・フォーミュラ・ルノーにフル参戦し、13戦でポールポジション3回、優勝3回、7回の表彰台を獲得。ただ、 ダニー・ワッツ(その後スポーツカーで活躍)、グリーンには届かず選手権3位に輝いた。


 また、2002年はヨーロッパを転戦し、各国・地域の有力ドライバーが集結するフォーミュラ・ルノー2000・ユーロカップ(後のユーロカップ・フォーミュラ・ルノー/最終的にフォーミュラ・リージョナル・ヨーロッパに統合され消滅)に第6戦スパ・フランコルシャンから最終戦/第9戦エストリルまでスポット参戦している。


 フォーミュラ・ルノー2000・ユーロカップでは、スポット参戦ながら第7戦イモラで2位、地元開催となった第8戦ドニントンパークではポール・トゥ・ウイン、最終戦エストリルでも2位と、4戦中3回の表彰台登壇を果たし、選手権5位を手にした。なお、主な著名ライバルとして、ニール・ジャニ(選手権2位)、ニコラ・ラピエール(選手権3位)、ホセ・マリア・ロペス(選手権4位)、クリスチャン・クリエン(選手権6位)、ロバート・クビサ(選手権7位)らが名を連ねている。

 2003年、ハミルトンは前年の忘れ物であるイギリス・フォーミュラ・ルノーのチャンピオントロフィーを手にすると、F3へスポット参戦し、翌年の本格移行へ向けて準備を始め、イギリスF3に1大会2レース、さらには公道コースのコリア・スーパープリ(ポールポジション獲得)、マカオグランプリに参戦。いずれもリタイアに終わるが、フル参戦前からスピードの片鱗を見せていた。


 2004年、ハミルトンはユーロF3にフル参戦を果たす。F3最大の激戦区だったこともあり、この年はグリーン、アレクサンダー・プレマ、 ラピエール、ニコ・ロズベルグに届かず、ランキング5位となった。


 また、同年のマカオグランプリでは予選2番手から予選レース優勝、決勝はニコ・ロズベルグとの攻防の最中でポジションを下げるも、非凡な才能を見せつけた。そして翌月に行われたバーレーン・スーパープリではグリーン、ロズベルグらを抑えて優勝。


 こうして、ハミルトンは次なる転機となる2005年シーズンを迎える。

■(少なくとも)2005年から専門誌で使用されていた『マクラーレンの秘蔵っ子』



(Text:autosport web)


レース

3/27(金) フリー走行1回目 結果 / レポート
フリー走行2回目 結果 / レポート
3/28(土) フリー走行3回目 結果 / レポート
予選 結果 / レポート
3/29(日) 決勝 結果 / レポート


ドライバーズランキング

※日本GP終了時点
1位アンドレア・キミ・アントネッリ72
2位ジョージ・ラッセル63
3位シャルル・ルクレール49
4位ルイス・ハミルトン41
5位ランド・ノリス25
6位オスカー・ピアストリ21
7位オリバー・ベアマン17
8位ピエール・ガスリー15
9位マックス・フェルスタッペン12
10位リアム・ローソン10

チームランキング

※日本GP終了時点
1位メルセデス-AMG・ペトロナス・フォーミュラ1チーム135
2位スクーデリア・フェラーリHP90
3位マクラーレン・マスターカード・フォーミュラ1チーム46
4位TGRハースF1チーム18
5位BWTアルピーヌF1チーム16
6位オラクル・レッドブル・レーシング16
7位ビザ・キャッシュアップ・レーシングブルズF1チーム14
8位アウディ・レボリュートF1チーム2
9位アトラシアン・ウイリアムズF1チーム2
10位キャデラックF1チーム0

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