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【F1コラム:悲劇の英雄ロドリゲス兄弟を生誕日に偲ぶ―リカルド編】メキシコのヒーローとなった神童が迎えた運命の日

2026年1月18日

 ベテランモータースポーツジャーナリスト、ピーター・ナイガード氏が、F1で起こるさまざまな出来事、サーキットで目にしたエピソード等について、幅広い知見を反映させて記す連載コラム。2026年F1のトピックのひとつは、メキシコのスター、セルジオ・ペレスが復帰することだ。この出来事にちなみ、メキシコ・モータースポーツ史に名を刻んだ伝説の存在、ロドリゲス兄弟の生涯を振り返る。兄ペドロ・ロドリゲスは86年前の1940年のちょうど今の時期、1月18日に生まれた。弟リカルドは1942年2月14日生まれだ。


 前編は、先にF1デビューを果たした弟リカルド・ロドリゲスに焦点を当てる。

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 メキシコシティのF1サーキットが『アウトドローモ・エルマノス・ロドリゲス』と名付けられているのは、リカルドとペドロという二人の兄弟にちなんでのことである。ふたりの兄弟の物語は、悲劇的でありながらドラマチックで、今なお語り継がれている。

■父ドン・ペドロが築いた舞台と、神童の誕生

 弟リカルドのレーシングキャリアは、父ドン・ペドロの存在抜きには語れない。1930年代に警察官として働き、政財界との人脈と投資によって巨万の富を築いたドン・ペドロは、その財力と影響力の多くを二人の息子のレース活動につぎ込んだ。リカルドは幼い頃から抜群のスピードを示し、13歳で二輪レースのメキシコ王者となり、15歳で四輪の国内選手権を制する。年齢制限という壁すら越えた参戦が可能だったのは、父の強力な後押しがあってこそである。


 10代半ばでヨーロッパのレースシーンに送り込まれたリカルドは、耐久レースでも非凡な才能を見せる。1959年、ル・マン24時間レースに出場し、翌年には18歳で総合2位でフィニッシュ。これは当時、同大会史上、最年少での表彰台登壇という記録であった。しかし父は満足しなかった。さらなる高みとして目指されたのが、フェラーリからのF1参戦である。

リカルド・ロドリゲス(フェラーリ156)
1961年イタリアGP リカルド・ロドリゲス(フェラーリ156)

■速いが危うさも感じさせた最年少F1ドライバー

 1961年、19歳のリカルドはフェラーリの一員としてモンツァでF1デビューを果たす。当時の史上最年少F1ドライバーという肩書と、年齢より幼い風貌、そして両親が常に付き添う姿に、パドックの注目が集まった。ピットで「セーターを着なさい」「コーラを飲みすぎるな」と注意される姿は、F1という極限の世界では異例だった。


 一方で、その走りは見る者を驚かせた。1961年イタリアGPでリカルドは、予選2番手という快挙を成し遂げた。決勝は、ヴォルフガング・フォン・トリップスと観客14名が命を落とす大事故に見舞われ、リカルド自身はこのレースをトラブルによるリタイアで終えている。


 メキシコ国内でリカルドの熱狂的なファンが増え続けたが、経験豊富なドライバーの多くは、リカルドに感銘を受けていなかった。彼の走りは洞察力や緻密さよりも勇気とリスクテイクに基づいていたというのが、ベテランたちの考えだったのだ。


 フォン・トリップの死後に1961年のワールドチャンピオンシップタイトルを獲得したチームメイトのフィル・ヒルは、「リカルドが長く生き残るとは思えない」と率直に述べていた。

■国民的英雄がペラルターダで散る

 母国メキシコで、リカルドは一躍国民的英雄となる。映画に主演し、数千人規模のファンクラブが設立され、自身のカートコースやモータースポーツ雑誌を立ち上げ、さらにはペプシコーラとのスポンサー契約を結ぶなど、10代とは思えぬ成功を収めた。1961年には結婚もし、翌1962年にはフェラーリでのF1フル参戦が期待されていた。

リカルド・ロドリゲス(フェラーリ156)
1962年オランダGP リカルド・ロドリゲス(フェラーリ156)

 リカルドはまだ若く経験不足であったため、エンツォ・フェラーリは彼を特定のレースでしか走らせなかった。しかしリカルドはベルギーGPで4位で初ポイントを獲得。そして1962年の終わり、リカルドの絶大な人気を受け、メキシコでF1レースが開催されることになった。


 メキシコシティに新設されたサーキットで、11月初旬に、世界選手権外のイベントとしてレースは開催。ポイントがかかっていない上に、エンツォの関心を引くほどの出場料もなかったため、フェラーリは欠場、そのためリカルドはウイスキー財閥の御曹司ロブ・ウォーカーのプライベート・ロータスチームと契約した。


 リカルドはホームレースの初日プラクティスでトップに立った後、午後4時頃にマシンから降りて、夜に開催される彼の栄誉を讃えるディナーに備えて着替えようとしていた。その時、ドン・ペドロがサーキットに到着した。


 同じ頃、もう一台のロータスを駆るイギリス人ジョン・サーティースがリカルドのタイムを更新した。ドン・ペドロは、家族とメキシコの名誉を考え、さらにサーティースは翌年のフェラーリドライバー候補としてリカルドのライバルだったこともあり、息子に対して、もう1周走るよう促した。ウォーカーのメカニックたちも新しいキャブレター設定を試したいと望み、リカルドは再びレーシングスーツに着替えた。


 リカルドはピットを出て、1周のウォームアップラップを行い、全開走行に入った。しかし180度の高速バンク『ペラルターダ』コーナーでコントロールを失った。スピードの出しすぎが原因だったという説もある。マシンは高速でガードレールに衝突し、リカルドは車外に投げ出された。マシンによって体が深く切り裂かれたが、兄ペドロが現場に駆け付けた時には、まだ息があった。


 現場で地元のカメラマンが瀕死の弟を撮影しているのを見たペドロは激昂し、写真を公開したら殺すと脅した。カメラマンはすぐにフィルムを取り出して破棄したという。


 ペドロは救急車で弟に付き添い、病院へ向かった。ドン・ペドロと妻、そしてリカルドの妻サラは事故現場に到着し、救急車に向かって手を振り、見送った。リカルドは救急車の中でまもなく息を引き取った。ペドロと救急隊員は、報道陣の群れをかき分けながら、弟の担架を病院まで運び入れた。


 この悲劇により、メキシコ全土が悲しみに包まれた。その夜、大統領自らが棺に付き添い、国葬にも参列した。リカルド・ロドリゲスは世界を驚かせる才能を持ちながら、20歳という若さで散った天才として、その伝説が今なお語り継がれている。

ロドリゲス兄弟の胸像
メキシコのアウトドローモ・エルマノス・ロドリゲスに飾られたロドリゲス兄弟の胸像


(Text : Peter Nygaard)


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