【】名車列伝:スピリット201C・ホンダ(1983)

8月17日


新興チームには重すぎた、ターボF1の開発
 1983年3月8日、ホンダは世界5大モーターショーのひとつ、スイスのジュネーブショー(プレスデー)にて15年ぶりのF1参戦を“正式”に発表した。とはいえ、そのほぼひと月前、2月4日にFISA(国際自動車スポーツ連盟)から出された83年F1世界選手権エントリーリスト(暫定版)にはスピリット・ホンダ/ステファン・ヨハンソンと記され、さらに前年から米英のサーキットでターボエンジンでのF1テストが繰り返されていたこともあってホンダのF1復帰発表は時間の問題だった。

 主な発表内容は、水冷の80度V型6気筒1.5リッターツインターボエンジンをスピリット・レーシングに供給/実戦テストとして4月10日の非選手権戦、レース・オブ・チャンピオンズ(ブランズハッチ)に参加/7月10日のF1世界選手権第9戦スイスGP(ディジョン)にエントリー済み、というもの。なお、ホンダの会社規模が大きくなり、市販車が増えていくなど本来の業務で手一杯だったこともあり、第二期F1活動は第一期と異なりエンジン供給に専念した。


スピリット・レーシングとは?
 ホンダの参戦発表からさかのぼること1年半、81年8月24日に「ジョン・ウィッカムとゴードン・コパックは、82年シーズンに向けて新しいF2チームを設立する」との発表があった。

 F1復帰に先駆け、80年にヨーロッパF2選手権での活動を再開したホンダ。まず旧知のロン・トーラナック率いるラルト・エンジニアリングに2リッターV6を供給し、81年はジェフ・リースが王座に就いたが、BMWエンジンを搭載するマーチ・エンジニアリングに苦しめられる。そこでマーチでマネージャーを務めていたウィッカムと、同じくデザイナーのコパックを当時、本田技術研究所副社長だった川本信彦が招聘。ホンダの出資により設立されたのがスピリット・レーシングだ。言わば、ライバルチームの主要メンバーを引き抜き、自軍に加えたのだ。

 翌82年シーズン、ホンダはラルトに加え、この新興スピリットにもV6エンジンを供給して2チーム4カーでヨーロッパF2を戦う。その同年5月、スピリットにF1ターボエンジン用のシャシー製作が初めて依頼され、シーズン終了後の11月24日、シルバーストンでスピリットのF2ベースシャシーに積まれたホンダV6ターボ車が初走行した。テストを担当したのはティエリー・ブーツェンとヨハンソンだった。

 年内はシルバーストンでテストを継続、年明けにはカリフォルニアで長期テスト、さらにドニントンパーク、ブランズハッチ、そしてリオデジャネイロまで出かけてテストを繰り返した。

 実戦テストと位置づけられた非選手権ブランズハッチ戦は、スピリットのF2シャシー、201を改良したマシンで参戦するも、4周でリタイア。ラジエターに小石が当たってブローしてしまったのだ。それでもステアリングを託されたヨハンソンやスタッフは、他のターボマシンに迫るタイムに手応えを感じていた。


実戦デビューと非情な決断
 迎えた7月の第9戦イギリスGP、ついにホンダV6ターボを積んだスピリットのF1マシンが世界選手権にデビューした。これは当初予定されていたスイスGPが、テレビ放映がないなどによりキャンセルされたためだ。ホンダのターボエンジン中心の開発ゆえ、まったく新しいシャシーの開発は時間的余裕がないと、4月と同じく201を改良したシャシーで臨み、84年レギュレーションに合致した完全なるF1シャシー、101は8月末に完成の予定だった。

 剛性の高さを認めつつもカーボンファイバーシャシーに否定的なコパックの意向もあり、201はアルミハニカムモノコックとなる。外観は無骨で真四角なサイドポンツーンが目立つくらいで、それ以外に特に大きな特徴はなかった。巨大なリヤウイングはダブルウイングとともに、コンベンショナルな1枚仕様も用意されていた。

 注目の1.5リッターホンダV6ターボ、RA163Eはボア×ストロークが90mm×39.2mm。ベースのF2用2リッターエンジンと同じボア(90mm×52.3mm)だったので、オーバースクエアとなっていた。当初ターボチャージャーはKKK製を2基装着、エンジンマネージメント関係は日立製だったが、後にIHI(石川島播磨重工業)製に替えられた。燃料タンク容量は規定の約半分の130リッターだ。

 デビュー戦の予選は、ポールポジションのルネ・アルヌー(フェラーリ)から4秒5遅れの14位。決勝はヨハンソンがスタートで3台を抜くも、燃料ポンプのベルト切れで残念ながら5周リタイアに終わってしまった。

 ところがイギリスGP前、6月にホンダはウイリアムズへのエンジン供給契約を結んでいたという。前年からの様々なテストやブランズハッチでの実戦テストを通じ、ホンダは新興チームとトップコンテンダーとの実力差を悟ってしまう。スピリットの限界を認識したホンダは並行して有力チームと接触、選ばれたのがフォードDFV搭載のFW07シリーズが名車だったゆえにターボ化に乗り遅れたウイリアムズだった。

 8月12日、第11戦オーストリアGPでホンダとウイリアムズの84〜85年の提携関係が明らかにされ、9月初旬にはホンダV6ターボを積んだウイリアムズの新車、FW09がシルバーストンとドニントンでテストを開始している。

 皮肉なことにほぼ同時期、9月上旬のイタリアGPに完成したばかりのスピリット101が持ち込まれ、翌戦ヨーロッパGP(ブランズハッチ)ではTカー登録がされていたという。しかし、予選を通過するかどうか微妙な状況だったスピリット陣営は新車にまで手が回らず、結局101は投入されなかった。そして、ウイリアムズ・ホンダが前倒しでデビューした最終戦の南アフリカGPにスピリットは姿を見せなかったのだ。

 デビュー時に白ベースだったスピリット201Cのカラーリングは、途中からホンダの2輪チームを彷彿させる赤・青・白のトリコロールに変わった。また操安性改善のため、ホイールベースを変更したマシンも投入している。201CはF2シャシーを流用したため他マシンに比べてホイールベースが極端に短く、トレッドに対してスクエアなディメンションだった。バランス上はヨーイングの慣性モーメントが小さいので好ましく見えるが、操安性や重量配分などからは好ましいものではなかったのだ。当然ながら初投入となったターボのトラブルが頻発してリタイアも多く、結局6戦を走ったヨハンソンの最高位は、オランダGPの7位だった。

 翌84年シーズン、エンジン供給はなくなったがホンダから若干のサポートは継続され、101を改造したシャシーに直列4気筒のハート・ターボを搭載して臨む。しかし成績低迷&資金不足は進み、85年シーズン序盤の3戦を走ったのみでスピリットは短いF1活動を終えた。

■スピリット201/201C・ホンダ(1983)
・デザイナー ゴードン・コパック/ジョン・ボールドウィン
・エンジン ホンダRA163E 80度V型6気筒+ツインターボ 1496cc
・ドライバー ステファン・ヨハンソン
・戦績 予選最高位13位/決勝最高位7位