【】名車列伝:ティレル022・ヤマハ(1994年)

1月6日


■エンジン:ヤマハOX10A 72度V型10気筒
■ドライバー:No.3 片山右京/No.4 マーク・ブランデル
■順位:予選最高位5位/決勝最高位3位

■カミカゼ右京、初めて“本物のレーシングカー”に
 1993年、9年ぶりに無得点という屈辱的なシーズンに終わったティレルにとって、94年は絶対に結果を残さなければならなかった。その意味でもチームの組織改革は結果的に成功だったと言えよう。フェラーリからハーベイ・ポスルズウエイトが3年ぶりに古巣へ復帰し、テクニカルディレクターに就任。これを機に、彼の戦友たるジャン-クロード・ミジョーも後を追うように、同じくフェラーリから古巣へ復帰し、エアロダイナミシストに。門弟たるマイク・ガスコインもザウバーから合流してチーフデザイナーとなり、まさに“ハーベイ・ファミリー”が集結した。


■ザウバーC12の“兄弟機”
 大失敗に終わったマイク・コフラン設計の93年型『021』からポスルズウエイトたちが得られるものなど何もなかった。021のデータは完全に葬られ、冒険を避けたオーソドックスなデザインにこだわった。その際、“チーム・ハーベイ”がデザインの基盤としたのは、93年型ザウバーC12だった。というのも、91年序盤にティレルを去り、F1参戦プロジェクトを進めていたザウバーに加入したポスルズウエイトとガスコイン。F1経験のなかったザウバーのエンジニアリングに代わり、C12の基本線を描いたのは誰であろう彼らだった。
 つまり、94年型『022』以前の直近で彼らがデザインしたマシンはC12だった。ゆえに同じ人間が線を引けば、おのずとそれは似通ってくる。 C12の正常進化型は94年型ザウバーC13ではなく、ティレル022と言ってもいいだろう。

 F1参戦3年目の片山右京は、初めて022をドライブした時に“初めて本物のレーシングカー”をドライブした感覚を得たのだという。ポスルズウエイトも同じような感覚を持っており、開幕前のテストの早い段階で、設計目標をほぼクリアしていることを自覚していた。軽く、整備性に優れ、セッティングの変更にも機敏に反応を示した022は、素性の良いクルマと言えた。
 とはいえ、問題がなかったわけではない。低速コーナーでのハンドリングと空力面に問題が見られ、少々大型のリヤウイングとサスペンションの小変更、さらにアンダートレイとフロントウイングにも手を加えセッティングの方向性を修正させた。ポスルズウエイトに言わせれば、サイドポンツーンのインダクション前にディフレクターを装着したことだけでも、エアロ効率は大幅に向上したのだという。

 確かに、開幕戦ブラジルGPから右京が5位入賞。第3戦サンマリノGPでも右京が5位、第5戦スペインGPでは僚友マーク・ブランデルが3位表彰台に立ち、022のその高いポテンシャルは関係者も認め始めていた。
 しかし、ティレルはトップチームほど潤沢な資金には恵まれていない中堅チーム。そんな彼らにとって94年が最も辛かったのは、イモラで起きたアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーの事故死を重く見たFIAが、シーズン中にもかかわらず目まぐるしくレギュレーションを変えたことにあった。ダウンフォースを減らすためにディフューザーのサイズ縮小、ボーテックスジェネレーターの禁止、スキッドブロックの義務化……さらにはエンジン出力を抑えるためにエアボックスに穴を開け、ラム圧低下を促した。開幕戦ブラジルの022と最終戦アデレードの022では明らかに違うキャラクターのマシンになっていた。どちらかといえば右京にはオリジナルの022の方が相性は良かった。それでもシーズンを通じて、幾度となく右京は素晴らしいパフォーマンスを披露した。

 特に大きなインパクトを与えたのは、ドイツGPとイタリアGPだろう。ホッケンハイムでは当時の日本人の最高記録となる予選5位を獲得。迎えた決勝ではスタートで3番手に上がったものの、6周目にエンジントラブルでリタイア。原因は事前準備に落ち度があったクルーのヒューマンエラーだった。
 モンツァでは終盤までウイリアムズ、フェラーリ、マクラーレンといったトップチームを相手に全く引けを取らない走りを見せていた。しかし、残り8周でブレーキトラブル(後に製品不良であったことが発覚)……またしても好走を結果につなげることができなかった。
 どちらのトラブルも潤沢な資金を持つトップチームなら起き得ない問題だっただろう。確かに022にはポテンシャルがあったが、信頼性の問題が終始つきまとった。資金繰りが厳しいゆえに独立したテストチームを持てないことも、開発・熟成面での足を引っ張ることにつながった。そういったチーム事情やトラブルが、中堅チームから脱し切れないティレルの実態だったと言っていいだろう。