
【】名車列伝:マクラーレンMP4-13・メルセデス(1998)
7月14日
■ブリヂストンとの共闘で生まれ変わったシルバーアロー
1980年代初頭にロン・デニス体制として新生したマクラーレン。しかし、92年限りでホンダが去り、93年限りでアイルトン・セナが、そして96年には永年のサポーターだったマールボロまでもが去ることとなり、チームは成績的にも凋落の一途を辿る。94〜96年と3年連続未勝利。苦境を脱することができずに喘いだ。
ようやく復調ムードが現れたのは97年のことだった。この年、開幕戦オーストラリアGPをデイビッド・クルサードが制するなど、マクラーレンは年間3勝をマークする。そして上げ潮ムードで迎えた翌98年シーズンのマシンこそが、マクラーレンにとって久々のタイトルウイナーとなるこのMP4-13である。
98年は、車両レギュレーションに大きな変化がふたつあった。ひとつは、ドライ路面用タイヤの表面にグルーブ(溝)が施されたこと。もうひとつは、マシンの全幅が狭められたことである(2000→1800mm)。歴史上、幾度か繰り返されたマシンスピード抑制の施策であった。
もちろんMP4-13もこの新規定に合わせて設計されたわけだが、この年のマクラーレンにとって最大の変更要素は、ブリヂストンタイヤへのスイッチであったと言うべきだろう。前年からF1本格参戦をスタートさせたブリヂストンは、中堅〜下位チームしか傘下にない状況ながら、グッドイヤーを履く上位勢を時折、慌てさせるほどの好パフォーマンスを発揮していた。そして98年に向けて、マクラーレンとベネトンがブリヂストン陣営へと移ったのであった。
また、前年の夏からエイドリアン・ニューウェイがチームに加わっていたことも、変化という意味ではマクラーレンにとって大きかった。
■疑惑のブレーキステアリングシステム
迎えた開幕戦オーストラリアGP、マクラーレンMP4-13・メルセデスは圧倒的なパフォーマンスを発揮して1-2フィニッシュを飾る。幸先の良い船出となったわけだが、その速さには、ある新機構の存在が大きく関与していた。ブレーキステアリングシステムと呼ばれたもので、これはコーナリング時にイン側の後輪にブレーキをかけることでマシンの向きを強制的に(よりスムーズに)変えさせるという秘密兵器だったのである。ロングホイールベース傾向が強まったマシンにとって、これは大いに有効なシステムであっただろうと推察される。
ハッキネンとクルサードは予選でフロントロウを確保し、レースでも終始1-2を維持した形で開幕戦を完全制圧。無線の不調でハッキネンが余計なピットインをして首位から陥落、それを正す目的なのか、あるいは事前の取り決めだったのか、クルサードがハッキネンに先頭を譲り返すなどのドタバタこそ生じたが、MP4-13はメルボルンで他車を圧倒したのであった。
しかし、新機構にはクレームがつく。4輪操舵、あるいはブレーキの2系統化などの嫌疑がかかり、第2戦ブラジルからは使用を禁止されてしまうのだ。だが、あとから考えてみると、マクラーレンは随分とあっさり禁止措置を受け入れたものである。陣営には、「ブレーキステアリングシステムなしでもMP4-13は十分に速い」との確信があったのか。だから、要らぬ騒動を回避するためマクラーレンは“お上”の判断に対し従順だったと思われる(あるいはさらなる隠し球があったのかもしれない……?)。
実際、第2戦以降もMP4-13は速かった。ハッキネンが開幕2連勝を達成し、連続2位に甘んじたクルサードは第4戦サンマリノでシーズン初優勝。そして第5戦スペイン、第6戦モナコを連勝したハッキネンがタイトル争いの主導権を握る。興味深いのは、前年までどちらかというとチーム内で優勢だったのはクルサードなのに、この98年は立場が逆転してしまったことだ。マシンの幅狭化とグルーブドタイヤ採用という変化が、チーム内での勢力図を一変させてしまったのだろうか。
タイトル獲得へと爆進するハッキネン&マクラーレン。そこにライバルとして台頭してきたのは、グッドイヤー勢のトップ、フェラーリ&ミハエル・シューマッハーであった。“チーム・シューマッハー”の陣容も整い、ついに覇権奪回が現実味を帯びてきたフェラーリは、雨のレースでマクラーレンの隙を突いたり、戦略的な機智を活かしたりしながら、追撃してきた。
ハンガリーGPでレース中にピットストップ戦略を変更(2回ストップから3回ストップに)して勝った逸話も、この年のものである。