2024.01.28

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2026年にマドリードでF1が復活。過去に開催された1981年のスペインGPは第一級のレース


(c)XPB Images
 2026年の初めから少なくとも10年間、スペインGPを開催するIFEMAストリートコースは、マドリード地域においてF1を開催する初めてのサーキットではない。

 F1世界選手権2年目の1951年、ペドラルベス地区で初のスペインGPが開催された。1周6.3kmのこの市街地コースは、石畳がかなり多い道路が特徴だった。1954年にF1によって最後にまた使用されたが、それは当時のスペイン最高のドライバーだったパコ・ゴディアの人気のおかげだった。

 F1がスペインに戻ってくるまでにそれからさらに13年かかるが、今度はマドリードの国際空港にほど近い、特設のハラマ・サーキットだった。1967年から1975年にかけて、鈴鹿サーキットの設計者でもあるジョン・フーゲンホルツが設計したこのコースと、バルセロナのモンジュイック地区にある市街地コースが会場となった。1975年のレースが観客4人の命を奪う恐ろしい事故で終わった後、ハラマは1981年までグランプリ開催を続けたが、このレースはFIAとFOCA(フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション)の間の戦争の犠牲となってカレンダーから永久に姿を消した。
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 つまりマドリードは、F1を取り戻すのに35年待たなければならなかったということになる。しかし1981年のグランプリが生み出した興奮と肩を並べるレースがIFEMAストリートコースで開催される可能性はかなり低い。しかし公平に言えば、スポーツの歴史のなかでここのような偉業を誇れるレースはほんの一握りだ。

 それでも数周の走行が行われた後に、ハラマでの最後のF1レースが歴史に残ることを暗示するものは何もなかった。フロントロウからスタートした世界チャンピオンのアラン・ジョーンズは、トップを走りそのまま彼方へ遠ざかった。7番グリッドのジル・ビルヌーブは驚異的なスタートを切り、彼のフェラーリが最初のコーナーに着くまでに3番手に上がり、グラベルでライバル車数台を抜き去ってそのターンを逃げ切った!

 フェラーリは1981年にすでにターボエンジンを稼働させ、コスワースV8エンジンまたはマトラV12を搭載して戦っていた。天才ビルヌーブは優位を誇るトップスピードによって、2台目のウイリアムズを駆る(カルロス・)ロイテマンを2周目の初めに追い抜いたが、ジョーンズに対してはタイムが伸びず、レースの結末は予測できるかに見えた。

 珍しいことに、ジョーンズは独走中に14周目でスピンして順位を落としたため、ビルヌーブがトップについたが、ハンドリングの悪いマシンでライバルを後ろに抑えておかなければならなかった。リジェ・タルボットを駆るジャック・ラフィットが2番手に上がってくると、さらに難しい状況になった。ラフィットはポールポジションを狙えたものの、スタートが悪かったため9番手スタートとなっていたが、彼のマシンはビルヌーブのフェラーリよりも1周あたり2、3秒速かった。

 ラフィットの決意と、コースのターマック以外やその他すべての部分を使った何度ものアタックにもかかわらず、ビルヌーブはラフィットを最後まで抑え込んでポジションを勇敢に防御した。ジョン・ワトソンとロイテマンがラフィットの後ろでフィニッシュしたが、ビルヌーブと5位のエリオ・デ・アンジェリスの間には1.24秒の差しかなかった。これだけ大きなグループによる僅差でのフィニッシュは、F1史上2番目の記録だった。

 ビルヌーブはその数週間前にモナコで優勝していた。驚異的なカナダ人にとってまたしても衝撃的な1勝だったが、これが自身最後のグランプリ優勝になるとは到底思えなかっただろう。彼は惜しくもその1年後にこの世を去ってしまい、そのために1981年のスペインGPが歴史に刻まれたことは悲しいことだ。

(Grandprix.com/Translation: AKARAG)

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