エディ・ジョーダンの盟友が語る『ジョーダン・グランプリ』覚醒の1994年。「プロの仕事ができた最初の年」
3月21〜23日に行われた中国GPの直前に、エディ・ジョーダンの訃報が届き、F1界に衝撃が走った。76歳、さすがに早すぎる死を多くの仲間たちが嘆いたのは言うまでもない。エディが立ち上げたジョーダン・グランプリは、日本のF1ファンの多くが、デビューから成功までの道程、その歴史のすべてを目の当たりにした最初のF1コンストラクターだったと思う。
1990年代中盤以降、ジョーダンは中団グループのトップを担うチームに成長し、時に当時の4強チームと言われたウイリアムズ、マクラーレン、ベネトン、フェラーリを喰う活躍を見せた。
その中でエディが見せた特筆すべき“能力”は若手の発掘だろう。ルーベンス・バリチェロ、エディ・アーバイン、ジャンカルロ・フィジケラ、ラルフ・シューマッハー、ヤルノ・トゥルーリらを走らせ、彼らはその後巣立った先でグランプリウイナーとしての実績を残していく。そんなエディの先見性が、チームの成長にも貢献したことは間違いない。
ジョーダンがデビューした1991年当時のF1は、ヤングドライバーだけでなく、下位カテゴリーに参戦していたチームもF1へのステップアップを目標にする、そんな時代だった。とくに国際F3000にエントリーしていたチームはその動きが顕著だった。
ただ、F1と下位カテゴリーとの大きな違いは、チームが独自で車体も作るコンストラクターでなくてはならず、そのチカラが伴っていなければF1へのステップアップは叶わぬ夢で終わる。エディがそのために協力を仰いだのが、ゲイリー・アンダーソンだった。当時のアンダーソンにはF1マシンをデザインした経験はなかったが、ジョーダン加入直前にはレイナードでF3000のマシンを設計した経験もあり、その手腕がエディに買われることになる。
マーク・スミスやアンドリュー・グリーンとともにジョーダン初のF1マシン、『191』を開発。衝撃のF1デビューイヤーは、ファンに大きなインパクトを与えることになった。
毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.51では、ジョーダン・グランプリがF1チームとして本当の意味でブレイクするきっかけを作った1994年シーズンの『194』を特集。このページでは、現在発売中の最新刊『GP Car Story Vol.51 Jordan 194」に掲載されるゲイリー・アンダーソンのインタビューを特別に公開する。
2シーズンの不振のときを経て迎えた1994年。F1にとって激震のシーズンとなるこの年に、真のF1チームとしての覚醒を見せたジョーダン。いかにして『194』が誕生したのか、車両開発の中核を担ったゲイリー・アンダーソンがその経緯を語る。
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──1994年シーズンを迎えようとしていた当時、ジョーダン・グランプリの状況はどうでしたか?
ゲイリー・アンダーソン「1992年と翌93年は、チームを存続させることが最優先だった。とくに92年は生き延びるだけで精一杯でね。率直に言って、競争力という点ではヤマハの“おかげ”で厳しい状況に陥った。エンジンは良くなかったし、クルマも良くなかった。もうありとあらゆるものが良くなかった(笑)。やりたいことをやれるだけの予算もなかった。そして、93年もまた再構築の年になったんだ」
「ブライアン・ハートのエンジンを見に行った時には、まだテスト用のユニットしかなかった。だが、その開発に関してブライアンが見せたスピリットとレーサーのメンタリティこそ、強く支持すべきものだと思った。結局はそれが何よりも重要なんだ。ハートと組むことになって、私たちの1993年の目標はただ生き延びるだけではなく、最善を尽くしながら生き残りを図る方針に変わった」
「とはいえ、チームとして出発してから3年目にして3社目のエンジンサプライヤーだから、まあ容易なことではなかったよ。予算不足も相変わらずで、ブライアンに多額の支払いをする能力はなかった。彼には予算として提示された金額を払ったが、それも新しいエンジンをF1に投入するのに本来必要な金額と比べれば、本当に微々たるものだった」
「1993年もレースではやや苦戦した。レギュレーション変更の内容は大まかにしか覚えていないが、クルマは車幅が狭くなった。それでも序盤戦ではベストを尽くせたと思う。やがて私たちは、ホイールベースが短すぎてリヤタイヤの消耗を早めていることに気づいた。この年から変わったクルマの縦横比に対して、前後の重量配分が適切ではなかったんだ。そして、シーズンも終わりが近づいた頃にホイールベースを長くしてやると、クルマの反応が明らかに良くなり始めた。1993年終盤にエディ・アーバインを迎えたことも、チームのモチベーション向上に役立った。ちょっとした刺激になったんだ」
「その頃にはクルマも確実に良くなり、1994年は前年の年末までに学んだことをベースにしてスタートできた。基本的な空力コンセプトもいい線を行っていて、そのポテンシャルを引き出せた。『194』は優れたパッケージだった。前年と同じエンジンで新たなシーズンを迎えられたのはあの年が初めてで、私もエンジンサプライヤーとの折衝とか、そういったことに煩わされずにクルマの方に集中できたからね。その違いは大きい。些細なことと思われるかもしれないが、雑事に追われずに技術的な仕事に専念できて、風洞実験にも同行し、開発に積極的に参加できるようになったんだ」
──どこの風洞施設を使っていたのですか?
アンダーソン「サウザンプトンだ。1997年まで使っていた。3分の1スケールで、とくに何かが優れていたわけではないものの、とりあえず厚紙とガムテープで空力パーツを作って試すようなこともできた。スケールが小さいから、モデルに掛かる荷重も大きくなかったんだ。だから、一見バカげたようなアイデアでも、すぐに模型を作ってテストしていたよ。実際、私は風洞での作業を大いに楽しんだ。長い棒の先に数本の毛糸を括りつけた吹き流しを作って、それを持って風洞に入り、渦流がどこで起きるのか、どこへ流れるのかを見極めようと試みたりしてね。現在の風洞のように、あらゆる設備が揃っているわけではなかったが、当時のエンジニアはそれを補う直感が鋭かったんだ」
「ただし、私たちが風洞を使えたのは、他の人々の利用申し込みが入っていない時だけだった。もし誰かが正規の利用料を払ってあの風洞を使いたいと言ってきたら、私たちは途方に暮れていただろうね。風洞を思う存分使えるわけではなかったから、あの規模のチームとしてはかなり綿密な実験プランを立てていた。風洞実験の難しいところは、それなりの時間を費やして風洞を回し、考えていたリサーチワークをすべてやり終えたとしても、それを深く理解するにはさらに時間的な余裕を必要とすることだ。つまり、そこからまた、ある程度の時間が必要なんだ」
──あなたが率いたのはごく少人数のデザインチームでした。あの時代は楽しかったと思いますか?
アンダーソン「私は昔からずっと、何でも自分の手でやりたい人間でね。風洞実験にも参加したいし、サスペンションジオメトリーに関する作業にも加わりたい。私は技術チームのマネージャーではなく行動派だ。組織が大きくなると、どうしてもデスクで書類仕事をしたり、会議の準備をしたりすることが多くなるが、それは本当の私ではない。何かに真剣に取り組み、行動するのでなければエンジョイできないんだ」
「私は自分がクルマを深く理解していて、その分野であれば何が起きているかを見抜く直感もあると思っている。そうした直感を養うには、絶えず頭を働かせ、あらゆる現象を分析しようと試みることが大事なんだ。それには、ある種の心の静謐を保つ必要がある。だが、デスクで書類の整理や部下の管理やらをしていたら、そういった静謐は決して得られないし、何よりも重要なこと、つまりクルマについて考えられなくなる」
──94年にはドライバーエイドが禁止されました。『193』に搭載したデバイスのうち、どんなものを降ろすことになったのでしょうか?
アンダーソン「フロントハイドロリックダンパー、あるいは一般的な呼び方をするなら車高調整デバイスがあってね。低速コーナーではフロントの車高を下げ、ストレートでは上げられたが、それほど高度に洗練されたものではなかった。もっぱら空力効率のためのデバイスで、高速コーナーやストレートでスピードを稼ぐことを目的としていた。ごくベーシックなもので、電子制御パッケージはルーカスの協力を得て開発した」
──1994年シーズンに向けて、あなたはブライアン・ハートにクランクセンターが低い低重心のエンジンを作ってほしいと依頼しました。
アンダーソン「これはブライアンとの関係がいかに良かったかという話でもある。ある日、私は彼に電話をして、こう言った。『クランクシャフトの高さだけど、下げられる可能性はあるかな。オイルサンプの改造だけで全体を下げるとして』。彼は少し考えてみると答えて、15分後に折り返し電話をくれた。そして、『どのくらい下げたい?』『20?下がるといいね。25?なら文句なしだ』という会話で方針が決まり、それ以上は何も必要としなかった。その後、私はAPレーシングに頼み込んで直径100?の小径クラッチを作ってもらった。エンジンの低重心化が進み、もはやクランクシャフトの高さはクラッチ径で決まるところまで来ていたからだ」
──193と比べると、194は大きく変わっていたのでしょうか?
アンダーソン「誰でも一年の間には何かを学んで、レベルアップしていくものだ。先ほども言ったように、私たちは1993年の終盤にリヤホイールを後方へ移動させてホイールベースを延長した。100mmか150mmくらいだったと思う。これはかなり大きな変更で、リヤタイヤの荷重を少し減らしたことによりクルマの神経質な挙動が緩和されて、タイヤの消耗も抑えられた。194にも、そうしたクルマの基本構成は引き継がれている」
「その他には、例えばサスペンションの機能、キネマティクス(機械運動学)、アンチリフト、アンチダイブといった要素が数多くあって、それぞれについて少しずつ学びながら、改良されたものを翌年のクルマに入れていくんだ」
「1994年のクルマでは、そういったことをすべてやった。資金がないとか、とりあえず生き延びることが最優先とか、本質的ではない事柄に煩わされずにクルマの開発に専念できたからだ。その意味において94年シーズンは、ジョーダン・グランプリが初めてプロフェッショナルな仕事をした年だった。私たちは大きな期待を抱いていた。そして、初めて『194』を走らせた時点で、なかなかいいパッケージであることが確かめられた」
──エストリルでの初テストでは、かなりの好タイムを記録しました。
アンダーソン「その場にはアイルトン・セナもいて、ウイリアムズのテストに参加していた。こちらは彼のクルマより燃料が軽い状態で走っていたのは確かだが、タイムを見る限りでは、彼に近いところまで迫っていた。比較の基準になるのはタイムだけだからね。『194』の長所は乗りやすいことで、実際、ドライバーたちはドライビングを楽しんでいた。そうなると質が高くて一貫性のあるフィードバックが得られ、こちらも適切な対応ができるんだ。クルマの出来が良くないと、ドライバーは操縦を楽しめない。だが、ルーベンス(・バリチェロ)は楽しそうにドライブしていたよ」
──ブラジルGPでのクラッシュをめぐって、アーバインが受けた3戦の出場停止という処分を、あなたはどう受け止めたのでしょうか?
アンダーソン「そもそも1戦出場停止という最初のペナルティについても同意はできなかった。目の前で何かが起きた時、ドライバーはどう対応するかを瞬時に判断しなければならず、アクシデントはその結果として発生してしまうものだ。私たちが、言うなれば無邪気にも抗議をしたことにより、出場停止は1戦から3戦になった。それもまたおかしな話だ」
「当時はありがちなことだったが、そうなるのが予想できるから、誰もがFIA国際自動車連盟の判断に疑問を呈することには消極的だった。だが、問われるべきは彼らの判断が正しかったか、間違っていたかだ。おそらくエディ(・ジョーダン)は、彼らの気分を害してしまったのだと思う。彼は本心をそのまま口にする。しかし、本来は誰もがそうあるべきだと思わないかね? エディは言葉を選んだりせず、何でもズバリと言ってしまう人物なんだ」
──岡山でのパシフィックGPでは、バリチェロが3位に入りました。
アンダーソン「あれがジョーダンにとって初のポディウムだった。拾いものではなく、自力で勝ち取ったという意味で、いいポディウムフィニッシュだったよ。シーズンの滑り出しは好調だった。ただ、その後はエディ(・アーバイン)が出場停止になったり、ルーベンスがイモラでクラッシュしたりして、いくらか勢いが削がれたと思う」
──1994年のイモラとその余波について、とくに印象に残っていることはありますか?
アンダーソン「その後しばらくの間、ルーベンスはあらゆるものと戦っているような感じだった。まだ若かったし、セナの死へのいかにもブラジル人らしい反応として、自分がブラジルを背負って立たねばならないと感じていた。あれはちょっと過剰な反応だった」
「ケガから復帰した彼は、シルバーストンでのテストに参加した。確か南側部分のコースだったと思う。そして、クルマに乗り込んでコースに出ると、クラッシュしてクルマを壊してしまったんだ。彼は私のところへ来て、こう言った。『(イモラで)ものすごいクラッシュを経験したから、自分がこのスピードに耐えられること、まったく怖いと感じないことを確かめるために、こうするしかなかったんだ』とね」
──イモラの直後にFIAが行なった、ディフューザーの短縮などのレギュレーション変更に対応するのは、困難な作業だったのでしょうか?
アンダーソン「私としては、むしろ変更を歓迎していた。ビッグチームとは違って、私たちならより迅速に対処できると思ったからだ。どのチームもいくつかの担当部署に分かれていたのに対し、こっちはただエンジニアのグループがいるだけだった。私は電動ノコギリを手にしてガレージの裏手に出ると、自分の手でディフューザーを切り詰めた。実際にクルマに取り付けて、何が起きるかを確かめるためだ」
「ディフューザーの長さを変えると特性がどう変わるかは、すでに風洞実験で試したことがあって、あとは例の直感を働かせたんだ。そうして、すべての改造はルール施行の日までに終わり、結果にも満足できた。こんな仕事なら、いくらでも来いと思ったよ。ほぼ直感で対応できたし、ドライバーも気に入って、良いフィードバックをくれたからね。ライバルチームの中には、FIAの会議で『どの変更にも反対』というところもあった。私は『いいアイデアだと思うね』と賛成したよ」