2026.04.07

ペレスが背負ったメキシコの夢。富豪の支援が紡いだキャリア【F1ドライバーの履歴書】


2006年ADAC フォーミュラBMWに参戦するセルジオ・ペレス(ミュッケ・モータースポーツ)
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 世界最高峰の4輪レースであるF1でレギュラードライバーの座を掴んだ人物は、下位カテゴリーからライバルを圧倒してきた名手ばかり。そこで、F1に到達するまでに彼らがどれほど活躍し、いかにして周囲のライバルとの違いを見せつけてきたのかを改めて確認するべく、2026年F1に参戦する22名がF1ドライバーになる前、ステップアップカテゴリーで残してきた結果やエピソードを『F1ドライバーの履歴書』と題した不定期連載でお届けする。

 第4回目に登場するのは、2011年にF1デビューを飾った現在36歳のセルジオ・ペレスだ。

 さて、前書きで『F1でレギュラードライバーの座を掴んだ人物は、下位カテゴリーからライバルを圧倒してきた名手ばかり』と書いあるが、ペレスに関してはそうではなかった。圧倒とは真逆で、必死にしがみつくような若手時代だった。そんなペレスのF1以前のレースキャリアを見ていくにあたり、まずは彼のキャリア形成と維持に多大な影響を与えた、カルロス・スリム・ヘルという人物を紹介する。

 1940年生まれのスリムは大学卒業と同時に株式投資を生業とし、その後証券会社を創業すると1960年代にはすでに財を成していた。1970年代には金融のみならず、工業、建設、鉱業、化学、航空、小売……上げればキリがないほど幅広く、メキシコ経済を形成するあらゆる分野で事業を展開した。

 1990年には、国有電話通信会社テレフォノス・デ・メヒコ(通称:テルメックス)の民営化をメキシコ政府が進めるなか、スリム率いる複合企業グルポ・カルソがテルメックスの買収に成功。これを機にスリムはさらなる巨額の富を得ることになった。スリムは86歳となった現在も息子であるカルロス・スリム・ドミット(1967年生まれ)とともに、テルメックスやテルセルを含む複数の通信関連企業を傘下に収めるアメリカ・モビル社を保有し、ラテン・アメリカで最も裕福な人物という地位を守り続けている。

 裕福なスリムはテルメックス・テルセル財団を通じた社会活動、慈善活動を手広く展開。また、2002年2月にはメキシコおよびラテンアメリカの若手レーシングドライバーに向けて、世界で最も権威あるカテゴリーに参戦できる機会を継続的に提供するべく『エスクデリア・テルメックス(現在のエスクデリア・テルメックス・テルセル)』という支援プログラムを開始するのだった。

 ようやくチェコ(編注:セルジオ・ペレスの愛称)の話題に移ろう。彼は1990年1月26日にメキシコ中部ハリスコ州の州都で『西部の真珠』と称される美しい街グアダラハラで生まれた。父アントニオ・ペレス・ガリベイは元レーシングドライバーで、メキシコ連邦議会で議員を務める政治家。スリムほどではないが、かなり裕福な家庭だった。

 4歳上の兄アントニオ・ペレス・メンドーサ(2008年NASCARメキシコ王者)に続くように、ペレスは6歳でレーシングカートキャリアをスタート。テルメックスが大会スポンサーだったテルメックス・チャレンジをはじめ、数々のレースで勝利を飾ると、若手の有望株として注目される存在となった。そんなペレスは2004年、エスクデリア・テルメックスのチームからスキップ・バーバー・フォーミュラ・ダッジ・シリーズのミッドウェスタン選手権とナショナル選手権に参戦し、14歳で四輪デビューを飾った。

 このスキップ・バーバー・フォーミュラ・ダッジ・シリーズは、スキップ・バーバー・レーシングスクールが運営する入門フォーミュラで、スチールパイプフレームシャシー『R/T 2000』に、ダッジの2.0リッターSOHC4気筒エンジン、リカルド製5速シーケンシャルミッションを搭載するシリーズだった。アメリカとカナダを転戦したナショナル選手権では苦戦が続いたが、最終戦ロード・アメリカで3位となり、シリーズ史上最年少の表彰台登壇ドライバーに輝いた。また、ミッドウェスタン・シリーズではルーキー・オブ・ザ・イヤーにも選ばれている。

 エスクデリア・テルメックスはペレスの才能を確信し、彼をヨーロッパへ送り出すことを決断。ペレスは家族のもとを離れ15歳でヨーロッパに移り住み、2005年のADAC フォーミュラBMW(ドイツ)に1台体制の4スピードメディアという小規模チームから参戦する。ペレスは開幕戦ホッケンハイムのレース2で2位となるが、この年の表彰台登壇はこの1回限り。のちにF1で戦うニコ・ヒュルケンベルグがチャンピオン、セバスチャン・ブエミが5点差の選手権2位となるなか、ペレスは選手権14位という成績で、決して目立ったドライバーではなかった。

 2006年も引き続きADAC フォーミュラBMWに専念。ただ、チームはミュッケ・モータースポーツ移籍に移籍。優勝には届かずも、2度の3位をはじめ、前年よりもコンスタントにポイントを積み重ね選手権6位となった。なお、この年のチームメイトのひとりに日本から参戦した黒田吉隆(のちにイタリアF3、AUTO GPなどに参戦)がいた。

 また、2006-2007シーズンA1GP第10戦上海にチームメキシコ(運営はチームクラフト)から参戦したが、レース1は15位。レース2はリタイアと、目立った活躍を見せることはできなかった。A1GPにおける決勝出走は上海のみだったが、開幕戦からチームメキシコに帯同しており、地元メキシコ戦を含む多くのラウンドの金曜フリー走行に出走。世界各地のサーキットで走行経験を積んだ。

 2007年、ペレスはイギリスF3の旧車が参戦するナショナルクラスに参戦する。このクラスは全車が無限ホンダエンジンを搭載し、シャシーはペレスを含むほとんどがダラーラF304だった(Fluid Motorsportのみ、ローラ童夢F106/04を使用)。参戦台数は多い時は11台、少ない時には5台というクラスだったが、そのなかでペレスはクラスポールポジション14回、クラス優勝14回、19回の表彰台、20回のトップ5フィニッシュを記録。17歳でイギリスF3ナショナルクラスの史上最年少チャンピオンに輝いた。

 続けて18歳を迎える2008年にペレスはイギリスF3の激戦区チャンピオンップクラスに臨んだ。チームはTスポーツ、シャシーはダラーラF308に変わった。ライバル勢にはマックス・チルトン(ハイテック・レーシング)、ブレンドン・ハートレー(カーリン)、ハイメ・アルグエルスアリ(カーリン)、オリバー・ターベイ(カーリン)、マーカス・エリクソン(フォーテック)といった名手たちに加え、のちにアルピーヌF1チーム代表を務めるオリバー・オークス(ユーロテック)がスポット参戦していた。

 シーズン序盤は第3戦モンツァでの連勝もあり、チャンピオンの最有力候補にも浮上した。しかし、シーズン中盤に7レース連続で表彰台に上がれない不調期があった他、終盤には3レース連続リタイアを喫したこともあり、タイトル戦線から脱落。アルグエルスアリがチャンピオンに輝くなか、ペレスは22戦中4勝でランキング4位となった。

 なお、2022年11月26日にモビリティリゾートもてぎで開催されたホンダレーシングスクール鈴鹿・カートクラス(HRS-K)の特別講習会にて、受講生から「今までドライブしてきたなかで、一番難しかったレースカテゴリーはなんですか?」と尋ねられたペレスは以下のように答えていた。

「今振り返ると、一番苦戦したのはドイツのADACフォーミュラBMWかな。メキシコから初めてヨーロッパに出たころのレースだね。あのシリーズだけが使っていたユニークなタイヤと、経験のないサーキットに、15歳の僕は苦戦した。そのシリーズに出ている他の若いドライバーはサーキットもよく知っていたし、タイヤにも慣れていた。だから僕はいつも後の方を走っていたんだ」

「でも、諦めずに経験を積めばいいと自分自身に言い聞かせて頑張ったんだ。イギリスF3に本当に小規模なチームから参戦した時も同じだね。ドライバーは僕ひとりでチームメイトもいない。そのときのエンジンは無限ホンダだったね。僕ひとりで5〜6台体制の強豪チームと戦うことになり、思うような結果は出せず、悔しい思いをした。でも、それも自分の経験だと思うようにしたんだ。『僕は速いんだ』、そう自信を持って最後まで諦めずに頑張ったよ」

■GP2へステップアップ。勝てる環境で現れた“怪物”



(Text:autosport web)

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