エンツォ・オゼッラが死去。1980年代にF1参戦、地元トリノで愛された元チームオーナー
F1界は、1980年代に活躍したひとりのチームオーナーを失った。9月27日、エンツォ・オゼッラが86歳で、イタリア・トリノにて死去した。トリノは生まれ故郷の近くであり、彼の名を冠したチームが40年以上にわたり拠点を置いた場所だった。
父親がトリノのヴォルピアーノでガレージを営んでおり、若きエンツォはそこを手伝い始め、やがて父の顧客の一人と組んでラリーのコ・ドライバーとしてモータースポーツ界にデビューした。
間もなく彼はドライバーに転向し、ラリーやヒルクライムに参戦し始めた。父親が販売していたアバルト車を駆り、好成績を収めたことで、会社のオーナーであるカルロ・アバルトの目に留まり、アバルトはオゼッラに市販車とレーシングカーのテストドライバーを任せることにした。これが、これがオゼッラのキャリアを形作る関係の始まりとなった。
1971年、カルロ・アバルトが施設と命名権をフィアットに売却すると、オゼッラはレーシング部門全体を買収し、「オゼッラ・スクアドラ・コルセ」を設立した。
小排気量のスポーツカーは10年以上にわたりアバルトの領域であり、オゼッラは華々しくその後を継いだ。フェラーリのF1ドライバーであるアルトゥーロ・メルツァリオが1972年のヨーロッパ・スポーツカー選手権を制したのである。
これにより車の販売は急増し、とりわけヒルクライムの参戦者が主要顧客となった。しかしオゼッラ自身はより高い野望を抱いていた。
1975年までにチームはフォーミュラ2に参戦し、支配的だったマーチ勢に対して健闘を見せたが、資金不足で継続できず、2リッター・スポーツカーとフォーミュラ3に集中し、成功を収めた。
1979年にはスポンサーを得てフォーミュラ2に復帰し、フェラーリの後援を受けたアメリカ人エディ・チーバーに1台を託した。彼は3勝を挙げ、シーズン終了時点でランキング5位となった。
同年8月にはエンツォ・フェラーリ本人の支援を受け、「小さなエンツォ」は1980年にF1に参戦することを発表、チーバーが唯一のマシンをドライブした。
1981年には2台体制に拡大したが、常に資金不足に苦しみ、中団勢力と戦う力はなかった。オゼッラは存続のためにアルファロメオから古いモノコックを買い取る必要があった。
1989年にはフォンドメタルがメインスポンサーとなり、その後ガブリエーレ・ルミがチームを買収。オゼッラは1990年末にF1から去った。その後25年間、彼はスポーツカーの製造を続け、欧州ヒルクライムシーンを席巻したが、70代半ばに健康を損ねて引退した。
オゼッラの成績は決して目立つものではなかった。1982年のサンマリノGPではジャン・ピエール・ジャリエが4位、1984年にはピエルカルロ・ギンザーニとジョー・ガートナーがそれぞれ5位を獲得したにすぎなかった。しかし彼のチームが地域社会に果たした役割は計り知れない。
アストンマーティンのエンジニアリングディレクターであるルカ・フルバットは、オゼッラを称えて、こう回想した。
「ギンザーニが5位に入った後、彼のマシンは町の最も大きな広場に展示された」
5位という結果ではあったが、それがヴォルピアーノの人々にとってどれほど大きな意味を持ったかを物語っているエピソードだ。