2024.09.13
【F速プレミアム】
アルゼンチンの新星、フランコ・コラピント/スペイン人ライターのF1コラム
(c)XPB Images
ウイリアムズからF1デビューを果たしたフランコ・コラピント。彼はどのような経緯でF1にたどり着いたのだろうか。スペイン在住のフリーライター、アレックス・ガルシアがコラピントの経歴について語る。
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自分の国のドライバーがF1でレースをするのを20年以上見ていない状況を想像してみてほしい。将来有望な若いレーサーがついにチャンスを得たのを見たら、どう感じるだろうか? イタリアGPでのフランコ・コラピントのデビューによりアルゼンチンのファンに起きたのはそういうことだ。ガストン・マッツァカーネが2001年シーズンをスタートさせて以来、23年ぶりにアルゼンチンが最高峰カテゴリーに復帰したのだ。言い換えれば、コラピントの母国出身のドライバーが前回F1でレースをしたとき、コラピント自身はまだ生まれていなかったのだ。
もちろん、ある人にとっての幸福は、別の人にとっての悲しみだ。この交代劇の敗者は間違いなく、アメリカのモータースポーツファンにとって希望の光だったローガン・サージェントだ。彼が昨年獲得したポイントは、マイケル・アンドレッティがモンツァで開催されたイタリアGPで、彼にとって最後のF1レースとなる表彰台を獲得して以来、アメリカ人ドライバーが獲得した初めてのポイントだった。彼の後任は、2024年シーズンの残りの全イベントに参戦する予定だ。しかし、フランコ・コラピントとは何者なのか?
実際、アルゼンチン人から国際的なモータースポーツでの成功を大いに期待されているコラピントは、スペインでキャリアをスタートさせたため、スペインのファンやジャーナリストは皆、彼の功績を常に誇りに思ってきた。特にF4にいた頃から、彼はフェルナンド・アロンソとペドロ・デ・ラ・ロサの両者から支援を受けていた。彼は最初のレースウイークに2回表彰台に上がったが、そのうちの1回はナバラで飾った素晴らしい勝利だった。その翌年の2019年、彼はスペインF4選手権の21レース中11レースで優勝し、誰もが認めるチャンピオンとなった。
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私はそこで初めて彼に会ったのだが、この若いドライバーは頭のなかに非常に明確な考えを持っていると感じた。これは必ずしも驚くべきことではない。こうしたドライバーは常に非常に野心的なものだが、彼がそうした目標を追いかけてアルゼンチンからはるばるヨーロッパまで旅した方法は、私にとって非常に印象的だった。文化的には、ラテンアメリカの人々はヨーロッパの人々とはかなり異なり、もちろんアジアの人々とはさらに異なる。
しかし、私は世界中のドライバーとの仕事を通じて、日本人とラテンアメリカの人々を本当に結びつけるもの、つまり家族を見出した。もちろん、私が“家族”と言うとき、必ずしも血縁関係のある家族を意味するわけではない。それは親しい友人などでも構わない。しかし、ヨーロッパのドライバーは単独か、もしくはひとりの連れとともに移動することが多いのに対し、ラテンアメリカのドライバーは家族や友人、または強力なサポートグループと一緒に移動するのが一般的であることに私は気づいた。多くの日本のドライバーも、同じようにする。
私が言いたいのは、コラピントにとって、家族や友人を残してヨーロッパでレースをすることは、他の日本人ドライバーが同じことをするのと同様に大変なことだったということだ。唯一の利点は、非常に素晴らしい利点でもあったが、スペインでレースをしていたため、彼にとって言語が障壁にならなかったという事実だった。しかし、彼はすぐにその快適さを捨て去らなければならなくなった。彼はフォーミュラ・ルノー・ユーロカップでレースを始め、2020年にルーキーとして3位でフィニッシュした!その才能は紛れもないものだったが、F1に到達するにはお金も必要だ。
もちろん、フランコ・コラピントにはいくらかの経済的支援があった。そうでなければ、彼はF4、フォーミュラ・ルノー・ユーロカップ、トヨタ・レーシング・シリーズ、FRECAでレースをすることはなかっただろう。しかし、それでも夢を叶えるには決して十分ではなかった。そこで、2021年にコラピントと彼のマネジメントは、耐久レースなど他の選択肢を検討することにした。G-ドライブから参戦したアジアおよびヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、そしてル・マン24時間レースでの彼のパフォーマンスは傑出しており、数回のGTレースでの活躍も同様だった。彼は一流の耐久レーサーになる運命にあるかに思われたが、2022年にFIA F3に参戦するチャンスが訪れた。
チャンピオンシップにデビューするファン・アメルスフォールト・レーシングが、このカテゴリーに早く順応するために、競争力のあるドライバーを求めていたおかげで、このチャンスは訪れた。コラピントはふたつのレースで優勝し、チャンピオンシップを9位でフィニッシュした。素晴らしいとは言えないかもしれないが、2年目のシーズンを確保するには十分であり、今度はMPモータースポーツから参戦した。そして最も重要なことに、ウイリアムズ・ドライバー・アカデミーに加わることができたのだ。F3での2年目は成績がはるかに向上し、ランキング4位でフィニッシュした。
しかし、シーズンが終わりに近づくにつれ、舞台裏では他のことが起こっていた。それはよいことではなかった。モータースポーツに費やすコラピントの資金が底をつきつつあり、彼のスポンサーは通常5億円以上かかるF2のシーズンに資金を提供できなかったのだ。そうした費用がかかることと、F3でトップ3に入っていないことから、将来の唯一の選択肢は、ヨーロッパでのレースを諦めてアルゼンチンに戻ることのように思われた。
そして、この物語に最も予想外の展開が訪れた。Bizarrapについて聞いたことがあるだろうか?彼はアルゼンチン出身のDJ兼音楽プロデューサーであり、アーバン、ラップ、ヒップホップ、ラテン音楽の分野では業界のビッグネームのひとりだ。そして、偶然にも彼はピエール・ガスリーの友人であり、Bizarrap自身の父親は熱狂的なF1ファンだ。ある日、父親が“Biza”に電話をかけ、コラピントのことを話したのだという。才能はあるものの、資金を集めることに苦労していた、将来有望なアルゼンチンの若手レーシングドライバーのことをだ!
そして称賛に値することに、Bizarrapはコラピントについて聞いたこともなかったにもかかわらず、彼に電話をかけて援助を申し出たのだ。すぐに、彼は自分のコネを使ってドライバーとスポンサー候補との会合を設定した。そして結果はすぐに出た。『Globant』や『YPF』などの大企業が、将来のレーシングスターへの支援を約束したのだ。これにより、彼はMPモータースポーツで2024年のFIA F2シーズンのシートを確保し、ウイリアムズ・ドライバー・アカデミーでも進歩を継続することができた。
こうして最終的に私はバルセロナでフランコに会った。まだF2にいた彼は、相変わらずカリスマ性と透明感があり、自分の進歩に満足していたが、他のドライバーたちのように大きなサポートを受けていないことを自覚していた。彼は名前は口にしなかったが、アンドレア・キミ・アントネッリのことを言っていることはお互いに分かった。他のドライバーたちは、彼ができない何千kmものテスト走行を許されていた。しかし、彼は自分にチャンスがあることを分かっており、ウイリアムズとの契約の一環として、待望のイギリスGPフリー走行に参加するなど、その機会を活用するつもりだった。
その後のことはご存知のとおりだ。苦労しているドライバー、将来有望で意欲的な若い才能、そして彼にチャンスを与えようとするチーム。ウイリアムズはコラピントに対し、48時間以内に一定の金額、私が聞いたところでは8億円以上を集めることができれば、シートを獲得できると言ったのだという。彼のスポンサーたちがそのことを聞き、わずか1日余りで資金が集まった。彼らはコラピントのことをそれほど信頼していた。そして、ジェームズ・ボウルズがすでに認めているように、発表後にはさらに多くの企業が関心を示している。
イタリアGPで、コラピントは素晴らしい仕事をした。週末で唯一のミスを冒した最後の予選走行の後、彼は18番グリッドからレースをスタートし、着実に順位を上げ、チェッカーフラッグを受けた時にはチームメイトのアレクサンダー・アルボンからわずか14秒差の12位につけたのだ。非常に経験の浅いドライバーが印象的なパフォーマンスを発揮したということで、彼は今やその名を馳せている。彼にとっては残念なことだが、ウイリアムズはすでに来年のドライバーラインアップを決めているため、彼は今年9レースしか出場できない。しかし、彼が期待に応えれば、2026年には最高のポジションにつけることになるかもしれない。彼は勤勉で、才能があり、忠実で、国全体の支持を得ている。彼に注目していてほしい。なぜなら彼は本物だからだ。
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(Alex Garcia/Translation: AKARAG)
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